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国際文化学部

【エピソード7】陳覚明 ―豊後府内に住んだ中国人仏師―


陳覚明 ―豊後府内に住んだ中国人仏師―

陳一族が流れ着いた肥前森崎に残る「ともづな石」(長崎市樺島町)

 日本社会で仏像や彫刻などを制作する高度な技術をもった人物のことを、仏師(ぶっし)と言います。例えば、奈良の法隆寺金堂にある国宝の釈迦三尊像(しゃかさんぞんぞう)の作者は、飛鳥時代に活躍した大陸からの渡来系の仏師である鞍作鳥(くらつくりのとり)(止利(とり)仏師)と言われ、また、東大寺南大門の両脇に立つ巨大な金剛力士像を制作したのは、運慶や快慶ら鎌倉時代に大陸伝来の新様式を取り込んで活躍した気鋭の仏師たちでした。
 仏像の需要が高かった江戸時代以前の日本において、仏師は社会に欠くことのできない重要な職能技術者で、しかもその多くの技法は中国などの渡来系のものだったと言えます。
 16世紀の豊後府内(大分市)にも、仏像制作を生業とする仏師が住んでいました。「智元(ちげん)仏師」と称されたその人物の本名は陳覚明(ちん・かくめい)。その名が示すように、彼も中国から渡来してきた技術者なのです。
 陳家に伝わる系図によると、一族が日本に移住してきたのは、覚明の父親の陳李長(りちょう)の代の永正3(1506)年。陳家の祖先は、代々中国明朝で要職を務めていたものの政争に敗れたため、家宝の冠と剣と宸筆(しんぴつ)墨跡(ぼくせき)(明皇帝直筆の手紙)、それに本尊の観世音菩薩像を携えて一族130人で江蘇省の揚州(ようしゅう)を出奔、長江に面する泰州(たいしゅう)から船に乗って肥前の森崎に流れ着いたということです。その上陸地の森崎とは、かつて長崎県庁があった長崎市江戸町から樺島(かばしま)町にかけての地域で、当時はここが長崎港に突き出た岬として船が着岸できたようで、唐船や朱印船をつないだ「ともづな石」も残されています。
 日本に着いた時の李長は28歳で、名を陳重基(しげもと)と改名します。系図では、伝来の家宝を5人の息子に分け、系図の写しも授けて、子孫は九州内の諸国に分散したと記されています。そして李長自身は、大永5(1525)年に47歳で没します。
 一方、李長の息子のひとりだった覚明は弘治13(1500)年の生まれで、長崎に流れ着いた時はまだ6歳でした。そして、15歳の永正12(1515)年に、覚明は「仏像師」として豊後府内に移住するのですが、系図には「観音之霊夢」を見たことがそのきっかけだったと記されています。恐らく、父親李長から陳家本尊の観世音菩薩像を譲り受け、府内で仏師として活動することになったのでしょう。
 智元仏師となった覚明のその後の足跡は定かではありませんが、日本人の大岡家出身の嫁との間に3人の息子をもうけ、みずからは天文11(1542)年に42歳で亡くなっています。
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