【エピソード6】ロウレンソ・ペレイラ ―日本―インド間を二往復した宗麟の使者―
ロウレンソ・ペレイラ ―日本―インド間を二往復した宗麟の使者―
ロウレンソ・ペレイラが学んだ聖パウロ学院跡(インドのゴア)
1551年11月15日、フランシスコ・ザビエルを乗せたポルトガル船が豊後を出航しました。2年数ヶ月にわたる日本国内でのキリスト教布教活動を精力的に進めたザビエルは、アジア宣教活動の本拠地であるインドのゴアに一旦戻り、布教態勢の立て直しを図ろうとしたのでした。
この時、豊後からインドに向けて出発したポルトガル船に、大友義鎮(よししげ)(宗麟)が仕立てた使者が乗り込みました。義鎮がインド総督アルフォンソ・デ・ノローニャに宛てた親書と贈答品の武具を携えた使者は、翌1552年2月にザビエルとともにゴアに到着しています。
ゴアは、ポルトガルによるインド植民地支配の政治中心地で、1510年にこの地を奪取して以来、ポルトガルは総督を派遣してアジア植民地を統括させていました。
ゴアで最初に布教を始めたフランシスコ会は、現地人のカトリック伝道者を養成するため、1541年に聖パウロ学院を創設します。学院はやがて、ザビエルに委譲されてイエズス会の運営となり、88人の教授と3000人の学生を有するアジア最大規模のコレジオ(神学教育機関)に発展します。
義鎮が派遣した使者も、この学院で学び、キリスト教の洗礼を受けて、ロウレンソ・ペレイラの洗礼名を名乗ります。ペレイラが洗礼を受けた時、聖パウロ学院ではルイス・フロイスも修学中で、洗礼式に参列したと思われます。
ペレイラの洗礼前の名前は不明ですが、江戸時代の学者新井白石は、その使者の名を「稙田(わさだ)玄佐」と推定しており、紛れもなく大友家の家臣だったことが推測されます。
さて、ゴアで布教態勢を整えたザビエルは、今度は中国での宣教をめざして1552年4月17日にゴアを出発します。この時、ザビエルには5人の日本人が随行しており、その中にもちろんペレイラがいました。ペレイラはマラッカまでザビエルに同行し、6月6日に分かれ、鹿児島を経由して9月7日に豊後府内に戻っています。
そして翌年になると、ペレイラは再度義鎮からインド渡航を命じられます。1553年、インド総督宛ての親書を携えたペレイラは、平戸を経由して、翌1554年3月16日に再びゴアの地に足を踏み入れたのです。
日本とインドの間を大友義鎮の使者として2度にわたって往復したロウレンソ・ペレイラ。2度目の大役を果たして1556年に豊後に戻ったその後の消息については、1586年ごろまで豊後に存命していたことが、面識のあるフロイスによって記されています。
この時、豊後からインドに向けて出発したポルトガル船に、大友義鎮(よししげ)(宗麟)が仕立てた使者が乗り込みました。義鎮がインド総督アルフォンソ・デ・ノローニャに宛てた親書と贈答品の武具を携えた使者は、翌1552年2月にザビエルとともにゴアに到着しています。
ゴアは、ポルトガルによるインド植民地支配の政治中心地で、1510年にこの地を奪取して以来、ポルトガルは総督を派遣してアジア植民地を統括させていました。
ゴアで最初に布教を始めたフランシスコ会は、現地人のカトリック伝道者を養成するため、1541年に聖パウロ学院を創設します。学院はやがて、ザビエルに委譲されてイエズス会の運営となり、88人の教授と3000人の学生を有するアジア最大規模のコレジオ(神学教育機関)に発展します。
義鎮が派遣した使者も、この学院で学び、キリスト教の洗礼を受けて、ロウレンソ・ペレイラの洗礼名を名乗ります。ペレイラが洗礼を受けた時、聖パウロ学院ではルイス・フロイスも修学中で、洗礼式に参列したと思われます。
ペレイラの洗礼前の名前は不明ですが、江戸時代の学者新井白石は、その使者の名を「稙田(わさだ)玄佐」と推定しており、紛れもなく大友家の家臣だったことが推測されます。
さて、ゴアで布教態勢を整えたザビエルは、今度は中国での宣教をめざして1552年4月17日にゴアを出発します。この時、ザビエルには5人の日本人が随行しており、その中にもちろんペレイラがいました。ペレイラはマラッカまでザビエルに同行し、6月6日に分かれ、鹿児島を経由して9月7日に豊後府内に戻っています。
そして翌年になると、ペレイラは再度義鎮からインド渡航を命じられます。1553年、インド総督宛ての親書を携えたペレイラは、平戸を経由して、翌1554年3月16日に再びゴアの地に足を踏み入れたのです。
日本とインドの間を大友義鎮の使者として2度にわたって往復したロウレンソ・ペレイラ。2度目の大役を果たして1556年に豊後に戻ったその後の消息については、1586年ごろまで豊後に存命していたことが、面識のあるフロイスによって記されています。