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国際文化学部

【エピソード51】一条兼定 ―豊後で授洗したキリシタン領主―


一条兼定 ―豊後で授洗したキリシタン領主―

 宇和海に浮かぶ戸島は、人口400人あまりの小さな島で、平安時代に藤原純友が拠点とした日振島とともに、足摺宇和海国立公園に含まれます。この戸島の本浦漁港に船を着けてしばらく歩くと、山の斜面に龍集寺の石垣が見えてきます。キリシタン領主一条兼定の墓を守る寺院です。
 京都五摂家の一つの一条氏と四国との関わりは、兼定のおよそ100年前の一条教房(のりふさ)に始まります。教房は、応仁の乱の勃発によって京都から土佐の幡多荘(はたのしょう)に下り、中村(高知県四万十市)に館(やかた)を構えました。土佐一条家は、その後、房家―房冬―房基―兼定の順に家督を継承していきます。
 一条兼定は、父房基と、大友義鑑(よしあき)の娘の間の子として、天文12(1543)年に誕生。16世紀の土佐一条氏の外交政策では、九州豊後の大友氏との縁戚関係が重要視され、房基が大友義鑑の娘をめとったのみならず、兼定も大友義鎮(よししげ)(宗麟)の娘を迎えています。
 しかしながら、土佐では、永禄年間に入って長宗我部元親が勢力を拡大し、兼定の領地は圧迫されます。窮した兼定は、天正元(1573)年、家督を子の内政に譲って出家、翌年に九州豊後の大友氏のもとに身を寄せることになったのです。
 兼定が身を置いた1570年代の豊後では、当時の日本においてトップクラスのキリスト教文化が花開いていました。大友氏の庇護のもと、府内(大分市)には天文22(1553)年に教会堂と司祭館、墓地が整備され、弘治元(1555)年と翌年には育児院と病院施設が設けられます。天正9(1581)年には、コレジオ(サン・パウロ神学院)が設置されて、日本人司祭養成の教育が施されます。
 天正年間初頭の豊後に滞在した兼定が、こうしたキリスト教の文化と思想を目の当たりにして、影響を受けたことは間違いないでしょう。兼定は、イエズス会日本布教長カブラルに接して教化を受け、ジョアン・バウチスタの手で受洗、ドン・パウロの霊名を授かります。天正3(1575)年、33歳のことです。
 受洗の年、義鎮の援助を受けた兼定は、土佐の旧領を回復すべく豊予海峡を渡り、四万十川(渡川)西岸の栗本に陣を張ります。渡川の合戦です。戦いは、長宗我部軍の勝利に終わり、敗れた兼定は、伊予に逃れ、宇和島沖の戸島に隠棲します。
 天正13(1585)年、兼定は熱病のため43歳で没します。龍集寺の墓は小さな宝篋印塔(ほうきょういんとう)ですが、ステンドグラス風の廟(びょう)は、キリシタン葬を望んでいた兼定のために、昭和48(1973)年に建立されたものです。

一条兼定のキリシタン風墓廟(愛媛県宇和島市戸島の龍集寺)

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