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国際文化学部

【エピソード5】斯立光幢―豊後硫黄の遣明使―


斯立光幢―豊後硫黄の遣明使―

くじゅう硫黄山の硫黄鉱石

 宝徳3(1451)年、日本から中国に派遣した遣明船団は、総勢9艘の船に1200人の使節団員が乗り込んだ大規模なものでした。この時、豊後からも大友親繁(ちかしげ)が仕立てた「六号船」が中国に渡っています。
 『笑雲(しょううん)入明記(にゅうみんき)』という記録によると、六号船の大友使節団は、享徳2(1453)年4月23日に中国南部の港町寧波(ニンポー)に入港した後、6月2日に進貢物を陸揚げし、8月12日に杭州を通り、10月8日に北京に到着、同10日に皇帝に拝謁しています。
 この大友遣明使節団の外交実務を担ったのが、斯立(しりゅう)光幢(こうとう)というお坊さんです。
 光幢は、円爾(えんに)を派祖とする京都の東福寺聖一派の臨済宗禅僧で、大友親繁の帰依(きえ)を受けて豊後の勝光寺に住していました。「斯立和尚(おしょう)伝」によれば、宝徳度の遣明船派遣の際、表文(ひょうぶん)(明朝皇帝に献上する手紙)の起草に携わったことがわかります。
 また、寧波の中国人文人張楷(ちょうかい)と交流したことも明らかで、東福寺には張楷の賛文がある斯立光幢の頂相(ちんぞう)(肖像画)が残されています。つまり、15世紀半ばの守護大名期の大友政権において、日中間を往来する外交官として活躍したのが、斯立光幢という禅僧なのです。
 ところで、遣明船史上最多の9艘が派遣されたこの宝徳度の各船には、どのような商売荷物(輸出品)が積まれていたのでしょうか。
 奈良興福寺の「大乗院日記目録」によると、積荷の内容は、39万7500斤(きん)の硫黄、15万4500斤の銅、9500振の太刀、417振の長刀、1250本の扇などで、最大の輸出品は硫黄だったことがわかります。
 さらに、硫黄積載量の船別の内訳では、4万3800斤を積んだ一号船(天龍寺船)から1万1000斤を積んだ十号船(伊勢法楽舎船)まで積載量にばらつきがありますが、最大量の荷物を積んでいたのは、9万200斤積載の六号船(大友船)でした。
 1斤=600グラムで換算すると、大友船積載の硫黄9万200斤は、およそ54トンに相当します。他の8艘の平均は3万9000斤(約23トン)ですので、大友船の積載硫黄は平均の2倍以上になります。
 大友親繁の遣明船にこれほど大量の硫黄鉱石を調達できた理由、それは、豊後硫黄の存在に他なりません。現在も噴煙をあげるくじゅう連山の硫黄山や由布院塚原北東の伽藍岳(がらんだけ)等、中世の豊後は日本最大級の硫黄産地でした。54トンもの硫黄を積んで中国に渡った斯立光幢は、硫黄遣明使と呼ぶことができるのです。

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