【エピソード47】挟間村衆―材木川下しに活躍した民衆―
挟間村衆―材木川下しに活躍した民衆―
河川輸送した材木で造替された金剛宝戒寺(大分市)
中世の川は、人間の生活や生産活動に密着した存在でした。川を使った材木輸送の実例として、16世紀半ばの戦国大名大友義鑑(よしあき。義鎮(よししげ)=宗麟の父)の材木「河下(かわくだし)」に関するおもしろい史料を紹介しましょう。
「甲斐家文書」によると、天文16(1547)年閏(うるう)7月1日、大友義鑑は「挟間(はさま)村衆」に宛てて、金剛宝戒寺(こんごうほうかいじ)造替用材木の「河下」作業を命じています。金剛宝戒寺は、大分市上野丘の台地上に現在も伽藍(がらん)を有する律宗(のち真言宗)寺院です。
一方、義鑑は25日後の閏7月26日にも「挟間村衆」に材木「河下」を命じますが、その際には、「大雨に候条、よくよく覚悟候て、天気晴れ候はば、早々に河下の馳走、肝要に候」と記しています。今は大雨なので、天気が晴れたら急ぎ「河下」作業に取りかかるよう指示しているのです。
さらに、大雨の状況がわかる閏7月24日の書状もあります。「金剛宝戒寺の材木、この度(たび)の大水で失(う)せ候分、方角河辺において流れ寄せ候の由(よし)申し候、当村衆請け取りの木を見分けられ、河下早々に馳走あるべく候」。
3つの古文書からわかる事実は以下の通り。
第一は、天文16年閏7月24日前後に、九州豊後方面を襲った自然現象についてです。「大水」との表現は、挟間村(由布市)を流れる大分川が増水した状況をさしており、上流の由布院方面で数日前に大雨が降ったことが想像できます。しかも、その大雨は最下流の府内でも降り、大友館(やかた)の遠侍(とおざむらい)の引両戸を全壊させる強い風を伴ったことが、別の史料から明らかです。川の上流から下流域までの広範囲に雨を降らせ、かつ家屋の戸を全壊させる風を伴ったことから、この自然現象は台風と推測されます。
第二は、この台風襲来時点での材木「河下」作業の進捗状況についてです。台風による川の増水のため材木が流出して、挟間村の川辺に流れ着いたことがわかりますが、この記述は、「河下」する材木が台風襲来の時点で挟間村より上流にあったことを示しています。
そして第三は、挟間村に流れ着いた材木を実際に拾得した「挟間村衆」の存在です。大友義鑑は、家臣に対し、彼らが保管している木を「見分」けるよう命じています。これらの材木は、上流域の由布院や阿南荘(庄内町)の山間部で伐採されたもので、実際にその「河下」作業を担ったのは、中流域に居住する「挟間村衆」たちだったのです。
台風による材木流出という自然災害が起こったことにより記録として残ったこの一連の史料から、川の流れを利用した材木輸送の実態がよみがえります。
「甲斐家文書」によると、天文16(1547)年閏(うるう)7月1日、大友義鑑は「挟間(はさま)村衆」に宛てて、金剛宝戒寺(こんごうほうかいじ)造替用材木の「河下」作業を命じています。金剛宝戒寺は、大分市上野丘の台地上に現在も伽藍(がらん)を有する律宗(のち真言宗)寺院です。
一方、義鑑は25日後の閏7月26日にも「挟間村衆」に材木「河下」を命じますが、その際には、「大雨に候条、よくよく覚悟候て、天気晴れ候はば、早々に河下の馳走、肝要に候」と記しています。今は大雨なので、天気が晴れたら急ぎ「河下」作業に取りかかるよう指示しているのです。
さらに、大雨の状況がわかる閏7月24日の書状もあります。「金剛宝戒寺の材木、この度(たび)の大水で失(う)せ候分、方角河辺において流れ寄せ候の由(よし)申し候、当村衆請け取りの木を見分けられ、河下早々に馳走あるべく候」。
3つの古文書からわかる事実は以下の通り。
第一は、天文16年閏7月24日前後に、九州豊後方面を襲った自然現象についてです。「大水」との表現は、挟間村(由布市)を流れる大分川が増水した状況をさしており、上流の由布院方面で数日前に大雨が降ったことが想像できます。しかも、その大雨は最下流の府内でも降り、大友館(やかた)の遠侍(とおざむらい)の引両戸を全壊させる強い風を伴ったことが、別の史料から明らかです。川の上流から下流域までの広範囲に雨を降らせ、かつ家屋の戸を全壊させる風を伴ったことから、この自然現象は台風と推測されます。
第二は、この台風襲来時点での材木「河下」作業の進捗状況についてです。台風による川の増水のため材木が流出して、挟間村の川辺に流れ着いたことがわかりますが、この記述は、「河下」する材木が台風襲来の時点で挟間村より上流にあったことを示しています。
そして第三は、挟間村に流れ着いた材木を実際に拾得した「挟間村衆」の存在です。大友義鑑は、家臣に対し、彼らが保管している木を「見分」けるよう命じています。これらの材木は、上流域の由布院や阿南荘(庄内町)の山間部で伐採されたもので、実際にその「河下」作業を担ったのは、中流域に居住する「挟間村衆」たちだったのです。
台風による材木流出という自然災害が起こったことにより記録として残ったこの一連の史料から、川の流れを利用した材木輸送の実態がよみがえります。


