【エピソード45】吉田牧庵―大友義鎮(宗麟)が招いた都の薬師―
吉田牧庵―大友義鎮(宗麟)が招いた都の薬師―
鹿児島の薩摩藩がまとめた『薩藩(さっぱん)旧記雑録』という史料のなかに、元亀2(1571)年5月21日の書状があります。「このたび豊後にいたり、久我(こが)殿様御下向候」。
「久我殿様」とは、室町時代後期の貴族として後奈良天皇に仕え、正二位・権大納言となった久我晴通(はれみち)のことで、1560年代以降たびたび都から九州に下り、大友義鎮(よししげ)(宗麟)と面会しています。特に、元亀元(1570)年には、長年続く西国の紛争を調停する目的で、「豊芸無事」(豊後大友氏と安芸毛利氏の休戦)を斡旋する将軍足利義昭の御内書(ごないしょ)と織田信長の奉書(ほうしょ)を伴って義鎮のもとに訪れています。
ところが、元亀2年の豊後下向の際には、書状の続きに、「紫野(むらさきの)和堂様、薬師(くすし)牧庵(もくあん)、狩野源四郎(民部の子にて候)、後藤源四郎(三郎四郎の子にて候)、めいじんそろへ下り申し候」と記されています。
「紫野和堂」は京都大徳寺の禅僧怡雲(いうん)宗悦(そうえつ)、「薬師牧庵」は医師の吉田牧庵、「狩野源四郎」は絵師狩野松栄(しょうえい)の子の永徳、「後藤源四郎」は金工家後藤光乗(こうじょう)の子の後藤徳乗(とくじょう)。禅僧・医師・絵師・金工家といった4人の「めいじん」(名人)がそろって久我晴通に同行し、豊後に下ったというのです。
都の貴族の九州下向に伴っての各界「めいじん」の豊後訪問は、もちろん単なる物見遊山の旅とは考えられません。
なかでも注目したいのは、薬師の吉田牧庵です。牧庵は、将軍足利義稙(よしたね)や義晴の侍医(じい)として名声を博した吉田宗忠(そうちゅう)、宗桂(そうけい)(意庵(いあん))、宗恂(そうじゅん)につながる医師と思われます。神道家で京都吉田神社の神主吉田兼見(かねみ)は、牧庵から「たびたび良薬」を授かり、また、「牧庵来たる、この間半身の痛みの様体をあい語り、一薬調合せしめ、これをまいらすべし」との診察を受けた事実が、『兼見卿記(かねみきょうき)』という吉田兼見の日記の天正8(1580)年7月5日や同12年5月9日の記述から確認できます。
臨済宗一山派の禅僧仁如集堯(にんじょしゅうぎょう)は、吉田牧庵の豊後訪問の理由について、その著作『鏤氷集(るひょうしゅう)』に「吾友牧庵公赴豊之後州、伝聞、国君以道愛人、施仁発政」と記しています。「私の友人の牧庵が豊後に赴いた。伝え聞いたところでは、豊後国の大名大友義鎮は、道をもって人を愛し、仁を施して政(まつりごと)を発するとのことだ」。それゆえ、都からの旅人はみな豊後をめざし、「一芸に名ある者は、庸(もち)いざるなしなり」。
吉田牧庵が薬師としてのその優れた「一芸」(医療・治療技術)の発揮を期待されて、大友義鎮に用いられたことがわかります。
「久我殿様」とは、室町時代後期の貴族として後奈良天皇に仕え、正二位・権大納言となった久我晴通(はれみち)のことで、1560年代以降たびたび都から九州に下り、大友義鎮(よししげ)(宗麟)と面会しています。特に、元亀元(1570)年には、長年続く西国の紛争を調停する目的で、「豊芸無事」(豊後大友氏と安芸毛利氏の休戦)を斡旋する将軍足利義昭の御内書(ごないしょ)と織田信長の奉書(ほうしょ)を伴って義鎮のもとに訪れています。
ところが、元亀2年の豊後下向の際には、書状の続きに、「紫野(むらさきの)和堂様、薬師(くすし)牧庵(もくあん)、狩野源四郎(民部の子にて候)、後藤源四郎(三郎四郎の子にて候)、めいじんそろへ下り申し候」と記されています。
「紫野和堂」は京都大徳寺の禅僧怡雲(いうん)宗悦(そうえつ)、「薬師牧庵」は医師の吉田牧庵、「狩野源四郎」は絵師狩野松栄(しょうえい)の子の永徳、「後藤源四郎」は金工家後藤光乗(こうじょう)の子の後藤徳乗(とくじょう)。禅僧・医師・絵師・金工家といった4人の「めいじん」(名人)がそろって久我晴通に同行し、豊後に下ったというのです。
都の貴族の九州下向に伴っての各界「めいじん」の豊後訪問は、もちろん単なる物見遊山の旅とは考えられません。
なかでも注目したいのは、薬師の吉田牧庵です。牧庵は、将軍足利義稙(よしたね)や義晴の侍医(じい)として名声を博した吉田宗忠(そうちゅう)、宗桂(そうけい)(意庵(いあん))、宗恂(そうじゅん)につながる医師と思われます。神道家で京都吉田神社の神主吉田兼見(かねみ)は、牧庵から「たびたび良薬」を授かり、また、「牧庵来たる、この間半身の痛みの様体をあい語り、一薬調合せしめ、これをまいらすべし」との診察を受けた事実が、『兼見卿記(かねみきょうき)』という吉田兼見の日記の天正8(1580)年7月5日や同12年5月9日の記述から確認できます。
臨済宗一山派の禅僧仁如集堯(にんじょしゅうぎょう)は、吉田牧庵の豊後訪問の理由について、その著作『鏤氷集(るひょうしゅう)』に「吾友牧庵公赴豊之後州、伝聞、国君以道愛人、施仁発政」と記しています。「私の友人の牧庵が豊後に赴いた。伝え聞いたところでは、豊後国の大名大友義鎮は、道をもって人を愛し、仁を施して政(まつりごと)を発するとのことだ」。それゆえ、都からの旅人はみな豊後をめざし、「一芸に名ある者は、庸(もち)いざるなしなり」。
吉田牧庵が薬師としてのその優れた「一芸」(医療・治療技術)の発揮を期待されて、大友義鎮に用いられたことがわかります。
牧庵の医療活動が頻出する『兼見卿記』


