【エピソード44】島津勝久―府内沖浜で没した島津家当主―
島津勝久―府内沖浜で没した島津家当主―
九州の戦国史のなかで、薩摩の島津氏と豊後の大友氏というと、九州を二分する合戦を繰り広げた犬猿の仲の大名とのイメージがあります。
確かに、天正6(1578)年に両者は日向の高城(たかじょう)(宮崎県木城町)・耳川で激しく戦い、8年後の天正14年末に優勢に立った島津軍が豊後に侵攻し、大友氏の本拠の府内(大分市)を焼き討ちした事実は、日本の戦国合戦史としてよく語られる通りです。
しかしながら、13世紀の鎌倉時代以来ともに九州の守護であった両家が対立する関係になったのは、16世紀後半の天正年間(1570年代)からです。実は、「島津家文書」で「貴家・当方御堅盟」と記される通り、それ以前の大友家と島津家は堅い盟約関係にありました。
例えば、島津氏第14代当主の勝久(かつひさ)は、父親は第11代の忠昌(ただまさ)ですが、母親は大友氏第16代政親(まさちか)の娘とされます。それだけでなく、戦国時代の府内のようすを描いた古図を見ると、港のあった沖浜(おきのはま)と芦崎の間(現大分市住吉町あたり)に、島津勝久の墓とする石塔が描かれているのです。薩摩島津氏当主の墓が、なぜ豊後の府内にあったのでしょうか。
島津勝久は、文亀3(1503)年に忠昌の三男として生まれました。当時の島津宗家は、まだ一族や諸豪族の統率がとれない状況で、永正5(1508)年に忠昌は没し、あとを継いだ2人の兄(忠治(ただはる)と忠隆(ただたか))も、ともに20代で夭逝(ようせい)します。勝久は、17歳の永正16(1519)年に当主となります。
しかしながら、経験の浅い勝久の政権基盤は弱く、薩州家・伊作(いざく)家・豊州家などに分かれる島津氏諸家の勢力争いを抑えることができず、やがて家臣団の離反も招いて、その政情は混乱を極めます。早くも24歳の大永6(1526)年に家督を養子の貴久(たかひさ)に譲り、自身は大隅や日向地方の諸氏を味方に一時勢力を取り戻すものの、最終的に母親の実家である豊後大友氏のもとを頼ることになったのです。
天正元(1573)年、勝久は豊後府内の沖浜で没します。享年は71。薩摩で政権を握ったのは、10代から20代の一時期のみで、むしろ人生の過半は豊後で生きたことになります。
沖浜にあった石塔のその後については確認できませんが、鹿児島市にある島津氏の菩提寺福昌寺跡の墓地には、父の忠昌、兄の忠治・忠隆と並んで、勝久の墓が建てられています。
確かに、天正6(1578)年に両者は日向の高城(たかじょう)(宮崎県木城町)・耳川で激しく戦い、8年後の天正14年末に優勢に立った島津軍が豊後に侵攻し、大友氏の本拠の府内(大分市)を焼き討ちした事実は、日本の戦国合戦史としてよく語られる通りです。
しかしながら、13世紀の鎌倉時代以来ともに九州の守護であった両家が対立する関係になったのは、16世紀後半の天正年間(1570年代)からです。実は、「島津家文書」で「貴家・当方御堅盟」と記される通り、それ以前の大友家と島津家は堅い盟約関係にありました。
例えば、島津氏第14代当主の勝久(かつひさ)は、父親は第11代の忠昌(ただまさ)ですが、母親は大友氏第16代政親(まさちか)の娘とされます。それだけでなく、戦国時代の府内のようすを描いた古図を見ると、港のあった沖浜(おきのはま)と芦崎の間(現大分市住吉町あたり)に、島津勝久の墓とする石塔が描かれているのです。薩摩島津氏当主の墓が、なぜ豊後の府内にあったのでしょうか。
島津勝久は、文亀3(1503)年に忠昌の三男として生まれました。当時の島津宗家は、まだ一族や諸豪族の統率がとれない状況で、永正5(1508)年に忠昌は没し、あとを継いだ2人の兄(忠治(ただはる)と忠隆(ただたか))も、ともに20代で夭逝(ようせい)します。勝久は、17歳の永正16(1519)年に当主となります。
しかしながら、経験の浅い勝久の政権基盤は弱く、薩州家・伊作(いざく)家・豊州家などに分かれる島津氏諸家の勢力争いを抑えることができず、やがて家臣団の離反も招いて、その政情は混乱を極めます。早くも24歳の大永6(1526)年に家督を養子の貴久(たかひさ)に譲り、自身は大隅や日向地方の諸氏を味方に一時勢力を取り戻すものの、最終的に母親の実家である豊後大友氏のもとを頼ることになったのです。
天正元(1573)年、勝久は豊後府内の沖浜で没します。享年は71。薩摩で政権を握ったのは、10代から20代の一時期のみで、むしろ人生の過半は豊後で生きたことになります。
沖浜にあった石塔のその後については確認できませんが、鹿児島市にある島津氏の菩提寺福昌寺跡の墓地には、父の忠昌、兄の忠治・忠隆と並んで、勝久の墓が建てられています。
福昌寺跡にある島津勝久の墓(鹿児島市)


