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国際文化学部

【エピソード43】種子島時堯―大友義鎮を訪問した種子島の大名―


種子島時堯―大友義鎮を訪問した種子島の大名―

 台湾に隣接する与那国島から琉球・薩南諸島を経て大隅半島沖から日向灘に至る弓なりの島々を、南西諸島と呼びます。北太平洋を北上する黒潮(日本海流)は、この島の列に沿って北北東に流れ、四国と九州の間の豊後水道を入り口とし、豊予海峡(速吸瀬戸(はやすいのせと))を抜けると、瀬戸内の海に合流します。
 南西諸島から九州東岸へと連なるこの黒潮ルートを利用して、遠交近攻(えんこうきんこう)策をとった16世紀の大名たちがいました。鉄砲伝来で有名な種子島の領主種子島氏と、北部九州の領主大友氏です。
 戦国時代の両者がどのような政治的関係にあったかを明証する史料は多くありませんが、種子島氏との関係を通して大友氏が、「沈香(じんこう)」や「南蛮小銃筒」などの東南アジア産の香木(こうぼく)や武器を入手し、さらに手に入れた「種子島筒」(種子島鉄砲)を室町幕府への献上品にあてていたことは、当時の古文書で確認できます。
 北部九州の大友氏による南西諸島方面での経済活動は非常に活発で、対立する薩摩の島津氏としては、天正年間(1570年代)以降、領国外部から薩南諸島へ入り込もうとする勢力を排除して経済的収益を独占すべく、流通統制を強めていきます。
 例えば、天正10(1582)年5月22日、伊集院(いじゅういん)忠棟(ただむね)ら4名の島津氏奉行人は、種子島氏に宛てて、「六ケ国よりの木買舟(きがいぶね)が着津の時、許容あるべからずの事」と命じています。
 「六ケ国よりの木買舟」とは、薩摩・大隅・日向の島津領を除いた九州六ケ国から種子島・屋久島方面の材木を目当てに渡航して来る船のことです。天正10年は、織田信長の斡旋によって大友・島津の和睦が表面上は保たれていますが、現実には肥後や筑後方面で間接的な軍事衝突が続いている時期です。このことから考えると、この書状は、対立関係にある大友氏を念頭に、その領国と種子島氏領との間の材木取り引きを禁止し、両国の経済的結合を分断する意図をもったものと考えることができます。
 実のところ、種子島家に伝わる「家譜」によると、1550年代後半に種子島時堯(ときたか)が、わざわざ島から九州に渡って豊後を訪れ、大友義鎮(よししげ)と会見したことがわかります。「前日は、遼遠(りょうえん)を凌(しの)がれての出国、ご辛労(しんろう)の段申すに及ばず候、向後(こうご)においては別して申し談ずべくの条、いよいよ毎時の入魂(じっこん)、祝着(しゅうちゃく)たるべく候」。義鎮は、遠い種子島からの長旅を慰労するとともに、今後、時堯との密な連携による友好関係の構築を期待し、書状を認(したた)めています。

種子島時堯像(西之表市)

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