【エピソード42】狩野元信―瑞峯院の墨絵画家―
狩野元信―瑞峯院の墨絵画家―
日本の絵画史のなかで、狩野(かのう)派は中世後期から近世にかけて巨大な派閥を形成し、時代の画壇をリードしました。
特に、その創始者狩野正信(まさのぶ)に始まり、元信(もとのぶ)、松栄(しょうえい)と続く室町・戦国期の親・子・孫3代の時期に流派が組織化され、狩野派は日本画壇での中心勢力と化します。そして、16世紀後半の永徳(えいとく)の時期に、画壇での支配的地位を確立します。
狩野永徳が、織田信長の依頼を受けて安土城内の障壁画(しょうへきが)を描いたことは広く知られ、その鮮やかな絵は、滋賀県の安土城天主信長の館(やかた)に復元されています。狩野派と政権との関係は、畿内中央のみの問題ではなく、実は九州の大名権力とも深いつながりを保ちながら創作活動を行っていることが、見逃せません。
16世紀半ばの天文年間、豊後の大友義鎮(よししげ)(宗麟)は、京都に瑞峯院(ずいほういん)を創建します。瑞峯院は、大徳寺の広大な伽藍(がらん)の南部に現存する塔頭(たっちゅう)で、義鎮によるその創建は、寺に残る史料から天文21(1552)年のことと推測できます。
注目されるのは、真珠庵(しんじゅあん)に残る「紫野(むらさきの)大徳寺明細記」のなかの「瑞峯院客殿」の襖絵(ふすまえ)についての次の記録です。
「礼之間(らいのま)、彩色花鳥、狩野松栄筆」「中之間、墨絵七賢(しちけん)四皓(しこう)、古法眼(こほうげん)筆」
大友義鎮創建瑞峯院の客殿(現方丈(ほうじょう))には、礼之間や中之間などの複数の部屋があり、それぞれにテーマをもつ襖絵が描かれていたのです。広縁に面した右側の礼之間の襖は、花鳥図で彩られ、その作者は狩野松栄。残念ながらその絵は同院に伝わっていませんが、松栄が描いた他の花鳥図は、ボストン美術館などに複数現存します。
一方、中央部の中之間には、墨絵の「七賢四皓」の図が「古法眼」なる人物によって描かれたとあります。作者の「古法眼」とは、松栄の父狩野元信のこと。そして、「七賢」とは中国の魏末晋初に河南(かなん)省の竹林に隠れた嵆康(けいこう)、阮籍(げんせき)ら7人(竹林(ちくりん)七賢(しちけん))、「四皓」は同じく秦末の混乱を避けて陝西(せんせい)省商山に隠遁(いんとん)した綺里季(きりき)ら4人(商山(しょうざん)四皓(しこう))の隠者(いんじゃ)をさします。中国の仙人や隠者を画題とする絵は、16世紀の日本画家たちによって盛んに創作されました。元信の「七賢四皓図」としては、東京国立博物館が蔵する六曲一双の屏風絵があり、瑞峯院客殿中之間の襖絵も、同様の絵柄だったと考えられます。
これら瑞峯院客殿画の制作を仮に同院創建の天文21年と想定すると、家督を継いで間もない当時23歳の大友義鎮が、77歳の狩野元信と34歳の狩野松栄に依頼し完成させたものと考えられます。
特に、その創始者狩野正信(まさのぶ)に始まり、元信(もとのぶ)、松栄(しょうえい)と続く室町・戦国期の親・子・孫3代の時期に流派が組織化され、狩野派は日本画壇での中心勢力と化します。そして、16世紀後半の永徳(えいとく)の時期に、画壇での支配的地位を確立します。
狩野永徳が、織田信長の依頼を受けて安土城内の障壁画(しょうへきが)を描いたことは広く知られ、その鮮やかな絵は、滋賀県の安土城天主信長の館(やかた)に復元されています。狩野派と政権との関係は、畿内中央のみの問題ではなく、実は九州の大名権力とも深いつながりを保ちながら創作活動を行っていることが、見逃せません。
16世紀半ばの天文年間、豊後の大友義鎮(よししげ)(宗麟)は、京都に瑞峯院(ずいほういん)を創建します。瑞峯院は、大徳寺の広大な伽藍(がらん)の南部に現存する塔頭(たっちゅう)で、義鎮によるその創建は、寺に残る史料から天文21(1552)年のことと推測できます。
注目されるのは、真珠庵(しんじゅあん)に残る「紫野(むらさきの)大徳寺明細記」のなかの「瑞峯院客殿」の襖絵(ふすまえ)についての次の記録です。
「礼之間(らいのま)、彩色花鳥、狩野松栄筆」「中之間、墨絵七賢(しちけん)四皓(しこう)、古法眼(こほうげん)筆」
大友義鎮創建瑞峯院の客殿(現方丈(ほうじょう))には、礼之間や中之間などの複数の部屋があり、それぞれにテーマをもつ襖絵が描かれていたのです。広縁に面した右側の礼之間の襖は、花鳥図で彩られ、その作者は狩野松栄。残念ながらその絵は同院に伝わっていませんが、松栄が描いた他の花鳥図は、ボストン美術館などに複数現存します。
一方、中央部の中之間には、墨絵の「七賢四皓」の図が「古法眼」なる人物によって描かれたとあります。作者の「古法眼」とは、松栄の父狩野元信のこと。そして、「七賢」とは中国の魏末晋初に河南(かなん)省の竹林に隠れた嵆康(けいこう)、阮籍(げんせき)ら7人(竹林(ちくりん)七賢(しちけん))、「四皓」は同じく秦末の混乱を避けて陝西(せんせい)省商山に隠遁(いんとん)した綺里季(きりき)ら4人(商山(しょうざん)四皓(しこう))の隠者(いんじゃ)をさします。中国の仙人や隠者を画題とする絵は、16世紀の日本画家たちによって盛んに創作されました。元信の「七賢四皓図」としては、東京国立博物館が蔵する六曲一双の屏風絵があり、瑞峯院客殿中之間の襖絵も、同様の絵柄だったと考えられます。
これら瑞峯院客殿画の制作を仮に同院創建の天文21年と想定すると、家督を継いで間もない当時23歳の大友義鎮が、77歳の狩野元信と34歳の狩野松栄に依頼し完成させたものと考えられます。


狩野元信が描いた「七賢四皓図」(東京国立博物館蔵)。瑞峯院客殿中之間の襖絵も、同様の絵柄だったと考えられる


