【エピソード41】願超―豪商仲屋家の堺支店長―
願超―豪商仲屋家の堺支店長―
奈良の天理大学附属天理図書館が蔵する「三聖寺(さんしょうじ)文書」のなかに、「替へ状の事」と題する興味深い古文書があります。
「一、銀子(ぎんす)合わせて五貫八百目定、爰元(ここもと)で請(う)け取りたて候。堺の津において右の前五貫八百目の分、三聖寺へたしかに御渡しあるべく候。ただし此(この)状、三聖寺ならで、よの人所持候いて永々用いざるもの也、殊(こと)に天秤の儀は願超(がんちょう)所持のたるべく候」
天正2(1574)年7月11日付で大友氏の家臣利光彦三郎に発給された「替へ状」(為替(かわせ)状)の案文(あんもん)(控え)で、その差し出し人は豊後の大豪商「仲屋宗越」です。
京都の東福寺塔頭(たっちゅう)の三聖寺は、鎌倉時代から豊後国大野荘内に所領を保有していました。その三聖寺に対し、戦国期の大友氏は年貢徴収・納入の請け負いを契約します。この史料では、天正元(1573)年分の年貢(銀5貫800匁(もんめ))の納入を請け負った利光彦三郎が、重たい銀のまま京都に運ぶのではなく、紙切れ1枚の「替へ状」に交換して三聖寺に届けたのです。
この為替状を豊後で発行したのが仲屋宗越なのですが、現代の郵便為替と同じように、現金(銀)化する際の条件が3点記されています。
第1に、5貫800匁の現銀化は堺で行うこと。第2に、銀の受取人は三聖寺に限定すること。そして第3に、現銀化の際に計量に使う天秤を願超が所持するものに特定すること。
為替の効力を三聖寺以外では無効とするのは、この「替へ状」の盗難や紛失に備えた条文です。仲屋宗越は、そうした不測の事態への対応に手慣れていたことを物語ります。さらに、注目したいのは、為替を銀に代える際の計量秤が、「願超」なる人物の天秤に限定されていることです。
『大友興廃記』によれば、豊後豪商仲屋宗越の営業形態とそのネットワークは、「府内の居住をつかまつりながら、大坂、堺、京いずれの地にても、富貴繁華の所には一家づつ持ち、下代(げだい)を遣わし、あるいは一門の末をも遣わし置けり」との状況でした。このことから、宗越発行「替へ状」を携えた三聖寺に銀を支払う場所とは、豪商仲屋家が堺で営業する支店舗であると推測できます。
そして、その堺支店で銀の計量に使用する「願超」所持の天秤とは、仲屋家の初代次郎左衛門入道顕通(けんつう)から引き継いだ豊後規格の秤でしょう。天正年間に近畿地方まで商圏を拡大していた仲屋家は、当主の「宗越」のほかに、「仲屋浄泉(じょうせん)」「浄教(じょうきょう)」ら一門による商業活動とネットワークによって維持されていました。「願超」は、そのうちの堺の店舗を任された一門と推測されます。
「一、銀子(ぎんす)合わせて五貫八百目定、爰元(ここもと)で請(う)け取りたて候。堺の津において右の前五貫八百目の分、三聖寺へたしかに御渡しあるべく候。ただし此(この)状、三聖寺ならで、よの人所持候いて永々用いざるもの也、殊(こと)に天秤の儀は願超(がんちょう)所持のたるべく候」
天正2(1574)年7月11日付で大友氏の家臣利光彦三郎に発給された「替へ状」(為替(かわせ)状)の案文(あんもん)(控え)で、その差し出し人は豊後の大豪商「仲屋宗越」です。
京都の東福寺塔頭(たっちゅう)の三聖寺は、鎌倉時代から豊後国大野荘内に所領を保有していました。その三聖寺に対し、戦国期の大友氏は年貢徴収・納入の請け負いを契約します。この史料では、天正元(1573)年分の年貢(銀5貫800匁(もんめ))の納入を請け負った利光彦三郎が、重たい銀のまま京都に運ぶのではなく、紙切れ1枚の「替へ状」に交換して三聖寺に届けたのです。
この為替状を豊後で発行したのが仲屋宗越なのですが、現代の郵便為替と同じように、現金(銀)化する際の条件が3点記されています。
第1に、5貫800匁の現銀化は堺で行うこと。第2に、銀の受取人は三聖寺に限定すること。そして第3に、現銀化の際に計量に使う天秤を願超が所持するものに特定すること。
為替の効力を三聖寺以外では無効とするのは、この「替へ状」の盗難や紛失に備えた条文です。仲屋宗越は、そうした不測の事態への対応に手慣れていたことを物語ります。さらに、注目したいのは、為替を銀に代える際の計量秤が、「願超」なる人物の天秤に限定されていることです。
『大友興廃記』によれば、豊後豪商仲屋宗越の営業形態とそのネットワークは、「府内の居住をつかまつりながら、大坂、堺、京いずれの地にても、富貴繁華の所には一家づつ持ち、下代(げだい)を遣わし、あるいは一門の末をも遣わし置けり」との状況でした。このことから、宗越発行「替へ状」を携えた三聖寺に銀を支払う場所とは、豪商仲屋家が堺で営業する支店舗であると推測できます。
そして、その堺支店で銀の計量に使用する「願超」所持の天秤とは、仲屋家の初代次郎左衛門入道顕通(けんつう)から引き継いだ豊後規格の秤でしょう。天正年間に近畿地方まで商圏を拡大していた仲屋家は、当主の「宗越」のほかに、「仲屋浄泉(じょうせん)」「浄教(じょうきょう)」ら一門による商業活動とネットワークによって維持されていました。「願超」は、そのうちの堺の店舗を任された一門と推測されます。
堺の「願超」所持の天秤を指定した仲屋宗越の為替状(三聖寺文書)


