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国際文化学部

【エピソード40】善妙 ―最後の「倭寇的遣明船」使節―


善妙 ―最後の「倭寇的遣明船」使節―

 中世という時代は、禅僧が国家間外交の使節として活躍した時代です。豊後大友家からも、義鑑(よしあき)の時代に寿光(じゅこう)と清梁(せいりょう)という名の禅僧が、義鎮(よししげ)(宗麟)の時には清授(せいじゅ)と徳陽(とくよう)が、ともに中国明に派遣されたことは、これまで紹介してきました。
 15世紀初めの足利義満が獲得した対明外交権は、その後16世紀には周防(すおう)の大内家が継承し、大内義隆は天文8(1539)年度と同16年度の遣明船を独占的に派遣します。つまり、大内氏は、日本国王名義を有する対明外交権の正式な継承者として、中国皇帝に貢物を贈り、勘合貿易を実現できたのです。
 これに対して、大友氏の場合は、正式な外交権者として主体的な対明交渉を行う資格を有していません。ということは、前述した寿光ら大友氏の外交僧たちは、日本国からの正式な使節と認められる確証のない状況下で中国に派遣されたことになります。この点で、大友氏の対明外交政策は、中国側から認められれば正式な朝貢(ちょうこう)使節として振る舞い、認められなければ警備の手薄な南方海域で密貿易をして帰国するという、表裏を使い分けたものと言うことができます。回数的には後者の密貿易の方が圧倒的に多く、毎回派遣される外交僧や船の乗組員らも、なかば確信犯的に密貿易の実利を第一に考えていたと言えるでしょう。
 しかしながら、義鑑・義鎮の二代にわたって続けられたこの危うい対明外交政策も、ついに終焉(しゅうえん)の時を迎えます。
 弘治3(1557)年10月、大友義鎮が仕立てた遣明船に使僧として乗り込んだ善妙(ぜんみょう)は、浙江省舟山島の岑港(しんこう)に船を停泊させ、明側の上陸許可を待ちます。しかしながら、同時に入港した中国人倭寇(わこう)の首領王直(おうちょく)を捕らえた明官軍と、王直一派との間で軍事衝突が始まり、善妙ら大友氏使節団も、明政府から海賊一味としての扱いを受けることとなったのです。
 中国側の記録『日本一鑑(いっかん)』によると、翌年2月に善妙らは自らの船を捨て、岑港の港町内部に立てこもります。さらに、舟山島内陸部に逃げ込んで新たな船を建造し、岑港とは異なる港から出航して、その数ヶ月後には南下した福建省の港に現れ密貿易をしています。
 しかしながら、この善妙を最後に、日本の戦国大名による遣明船の記録は途絶えます。16世紀後半の世界史の大きなうねりのなか、1550年代までの中国を相手とした「倭寇的遣明船」の時代は終わりを遂げ、1570年代から新たに東南アジア諸国を相手とする「南蛮貿易船」の時代へと、大きくシフトしていくのです。

善妙らの遣明船が停泊した岑港(中国浙江省舟山島)

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