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国際文化学部

【エピソード4】仲屋宗越―古文書と考古遺物でよみがえった東南アジア貿易豪商―


仲屋宗越―古文書と考古遺物でよみがえった東南アジア貿易豪商―

府内「桜町」で出土した製作途中の分銅(仲屋家の製作と思われる。大分県立埋蔵文化財センター蔵)

 16世紀半ばの豊後府内(大分市)で仲屋顕通(けんつう)という名の豪商が活動し、大友氏の信任を得て、銀計量に使用する大名公定の秤と分銅を製作・発行し、日明貿易を統括していたことは、前回紹介しました。
 その身一代で財力を蓄えた豪商仲屋家の家業は、息子の宗越(そうえつ)が継ぎ、16世紀後半には日本一の大豪商としてマーケットを東南アジアにまで拡大していきます。
 宗越は、大友氏に加え豊臣氏とも結びついて国内商圏の拡大に成功し、豊後府内から臼杵、長崎、そして大阪の堺にまで広げた支店舗で、父親顕通から引き継いだ「遺秤」(銀を計量するための秤(はかり)と分銅(ふんどう))を使って商売を営んでいました。さらに宗越は、九州南部の日向・大隅へも商業活動を展開して、南方貿易への活路を模索し、カンボジア交易を手がける明の貿易商人と結んで東南アジアの物資を入手するとともに、大友氏がカンボジアに派遣した交易船では、積み荷商品の統括者として貿易に関与しています。
 九州豊後の豪商仲屋氏は、16世紀半ばから終わりにかけての40~50年間、顕通と宗越の父子2代の経済活動を通して、貧商から南蛮貿易を手がける大豪商へと成長していったのです。
 近年、この豪商仲屋家が営んでいた屋敷跡らしき遺構が、豊後府内の中心に位置する大友氏の館(やかた)の門前「桜町」から見つかりました。大友館は、大分川の流れる東に向いて正門を有しており、その門前を南北に貫く大路(おおじ)が都市府内のメインストリートです。「桜町」は、この南北大路沿いの12の町のなかで、大友館の正門前に位置する都市の一等地。この「桜町」北端の角地の発掘で、桁(けた)行5間・梁(はり)間2間の長方形の家屋2棟をL字状に組み合わせた礎石(そせき)建物が見つかったのです。中世府内の町屋の遺構は簡素な掘立柱(ほったてばしら)建物が普通です。さらにこの調査区からは太鼓形や八角形の分銅16点が出土し、そのうちの14点には三木紋(みつきもん、大友氏の家紋)が刻まれ、また、L字礎石建物のそばからは分銅を製作するための青銅製品鋳造炉跡も検出されました。隣接地からは、製作途中のバリのついた八角形分銅が三個連なった状態で出土しています。
 これら数々の文献史料と考古遺物の符合を総合すると、豊後府内の中心「桜町」に礎石建物を建て、大友氏から認められた秤の規格権益をもとに敷地内で大名公定の分銅を製作・発行していたのは、豊後の豪商仲屋氏の初代顕通と2代宗越であると判断できるのです。
 なお、仲屋家2代目の名前は、これまで「宗悦」と表記されていましたが、本人は「宗越」と自著していたことも近年判明しています。
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