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国際文化学部

【エピソード39】徳陽 ―大友=大内連合の対明使節―


徳陽 ―大友=大内連合の対明使節―

徳陽が滞在した道隆観の名残「道隆山弄」地名(中国浙江省舟山島)

 今から470年ほど前の天文21(1552)年、西日本に兄弟の戦国大名が並び立つ時代が訪れました。
 兄は、豊後大友家21代当主の大友義鎮(よししげ)(宗麟)、そして弟は、義隆没後の周防(すおう)大内家に養子入りして家督を継いだ大友晴英(はるふさ)、のちの大内義長です。
 大内家は、すでに義隆の時代に周防・長門・安芸・石見・備後・豊前・筑前の7ヶ国の守護を兼任。大友家も、この後義鎮が豊後・筑後・肥後など九州6ヶ国の守護を兼ねます。兄弟あわせて13ヶ国。日本の戦国時代のなかで天文21年から弘治3(1557)年までの5年間は、大友=大内連合という、日本の5分の1を領有するこれまでにない大規模な兄弟戦国大名政権が西国に誕生した時代なのです。
 こうした日本国内の情勢は、海を越えた隣国にまで伝わります。『明世宗(みんせいそう)実録』という中国の記録によると、弘治2(1556)年、大友=大内連合まっただ中の日本に倭寇(わこう)の取り締まり要求のために訪れた明王朝の使者蒋洲(しょうしゅう)は、最終的にその取り締まりを大友義鎮と大内義長の2人に要求しています。
 これを受けた弟の義長は、大内家に伝来する「日本国王」印鑑を捺印した「表(ひょう)」という外交文書を作成し、倭寇に捕らわれていた中国人とともに本国に送り届けています。これは、自らが対明外交権を有する「日本国王」資格の継承者であり、かつ現実的にも国内の海賊を統制しうる政治軍事権力者であることをアピールする行動です。
 一方、兄の大友義鎮も、「大明(だいみん)副使(ふくし)」として日本を訪れた蒋洲を手厚くもてなし、その帰国に際して、明朝皇帝への「表」と貢物を使僧の徳陽(とくよう)に持たせ、蒋洲を護送して中国へ送り届けています。
 中国の『日本一鑑(いっかん)』という記録に、次のような記述があります。「貢夷(こうい)徳陽等船一艘、泊於舟山馬墓港、遂館本山道隆観」。大友義鎮が派遣した徳陽らの船は、中国浙江省沿岸の舟山島の西北部に位置する馬墓(まぼ)港に着岸し、徳陽は、島中央部の定海(ていかい)という町に移動し、道隆観(どうりゅうかん)に滞在しているとの記録です。
 道隆観とは、かつて定海南部にあった観山(かんざん)という山のふもとに建つ道教の寺院です。『定海縣志』によるとその創建は北宋の宣和2(1120)年ですが、現地を訪ねたところ建物は現存せず、「道隆山弄(どうりゅうさんろう)」という地名のみが伝わっています。大友=大内連合政権の使者として中国を訪れた徳陽は、かつてこの場所にあった宗教施設に滞在して、対明外交交渉を行ったのです。
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