グローバルナビゲーションへ

本文へ

ローカルナビゲーションへ

フッターへ


国際文化学部

【エピソード38】佐藤八郎兵衛―大名船の「船奉行」―


佐藤八郎兵衛―大名船の「船奉行」―

 16世紀は、列島各地の有力領主による船を利用した交易活動が活発化した時代でした。
 例えば、肥前国の平吉氏は、有明海に面した港町嘉瀬(かせ)(佐賀市)を本拠に、戦国大名龍造寺氏や鍋島氏のもとで財力を蓄えた商人です。同家に伝わる「平吉家由緒書(ゆいしょがき)」は、17世紀後半にまとめたものですが、その中に、同氏が上級権力のもとで船を使った交易活動を行っていたことを示す記述があります。
 天正年間(16世紀後半)に、平吉氏が領主鍋島直茂の「上方筋(かみがたすじ)御用」として九州から畿内へ向かう際、能島(のしま)・来島(くるしま)・因島(いんのしま)のいわゆる三島村上氏に「謝礼銀子(ぎんす)」1貫目を手渡すことで、「免々判物(はんもつ)」と「船印之旗」20本を獲得した。以後、鍋島氏関連の船は、この判物(村上家当主からの通行許可書)と船旗を掲げることで、村上氏領内の瀬戸内海を安全に通行できるようになった、との記録です。
 一方、豊後国の大友氏に関わる軍記物『大友興廃記』にも、16世紀後半の瀬戸内海を東上する船に関する類似の記述があります。
 「豊後国に、東福寺の三聖寺より領する地、四百貫文あり。万寿寺ならびに神護山同慈寺、この両寺より年々これを取納す。義鎮(よししげ)公、六人の老中より年貢運送の船奉行を相添へ、毎年登せらるる。ある年、吉岡宗歓(そうかん)の侍、佐藤八郎兵衛という者、船奉行として、十六反(たん)帆の船にて上洛の時、船中にてひとつの不思議あり。府内の沖を出し、四国路を過るに、讃岐国汐分(しわく)(塩飽)七浦の海賊ども起て、この舟を奪い取らんと思い船数を催し集め、矢比(やごろ)に推し寄せ、散々に射掛る。矢のしげき事雨の降るがごとくなり。その時、船よりこれを防ぐ」。
 豊後国内の東福寺三聖寺領の年貢400貫文を京都へ送るに際して、大友義鎮(宗麟)は、老中配下の家臣を「船奉行」に任命して毎年運送させていた。ある年の輸送では、大友氏の重臣の一人吉岡宗歓(長増(ながます))の家臣の佐藤八郎兵衛が船奉行となり、「十六反帆」の船で瀬戸内海を航行していたところ、讃岐の塩飽(香川県丸亀市)で海賊の襲撃に遭遇したが、かろうじて船を守った、との内容です。
 風力を利用して走る帆船では、筵(むしろ)帆や木綿帆が使われ、帆柱に掲げる帆の数「○反帆」で船の大きさを表現します。16反の帆を張った佐藤八郎兵衛の船は、当時としてはかなりの大型船と言えます。
 中世後期の九州の有力大名は、こうした大型の船を海に浮かべ、「船奉行」に差配させながら、自らの領国を経営していたのです。

帆を畳んだ状態の帆船(中国江蘇省)

  1. ホーム
  2.  >  国際文化学部
  3.  >  学部長の「国際日本史学」コラム
  4.  >  【エピソード38】佐藤八郎兵衛―大名船の「船奉行」―