【エピソード35】若林仲秀―「水居船」を経営―
若林仲秀―「水居船」を経営―
16世紀の日本に群雄割拠した戦国大名は、東日本と西日本ではその特質が異なります。武田氏や上杉氏などが馬を駆使した陸上での活動に秀でていたのに対して、瀬戸内海を挟む中国・四国地方や大陸に近い九州の大名は、陸のみでなく、海上での船を操った活発な活動を大きな特色としています。そして、その海上活動を担ったのは、大名の家臣団に編成された海の領主たちです。
例えば、弘治3(1557)年10月に大友義鎮(よししげ)=宗麟が中国に派遣した船は、中国側の記録では「巨舟」と表現されていて、浙江省舟山島の岑港(しんこう)に入港後、同地で起こった軍事騒動に巻き込まれて沈没しています。ところが、その遣使一行は、そのまま行方不明になったのではなく、翌永禄元(1558)年7月に柯梅(かばい)という村で「桐油(とうゆ)鉄釘」を手に入れて「造舟」をし、11月に船を完成させて島から出港しています。
異国の地で船を失った一行が、木造船の継ぎ目をふさぐ桐油や鉄釘などの造船資材を入手して、わずか4ヶ月の期間で新船を建造できたことは、注目に値します。その背景には、帰国に向けた現地中国人の協力援助があったことに加えて、そもそもその船に、操船のみならず、造船の知識と技術をもつ人物が乗船していたことが推測されるからです。
大友氏領国でそうした立場に適合する家臣としては、例えば、豊後国海部(あまべ)郡を本拠とする若林氏があげられます。同氏末裔に伝わった古文書群のなかには、中世若林氏の海の領主としての特質を示す史料が少なくありません。
「津久見は海辺の事に候条、下され候わば、居屋敷として水居船などを覚悟つかまつり、海上御用などをも涯分馳走(ちそう)致すべく候」。
これは、15世紀後半期の若林仲秀が、海に近い津久見(大分県津久見市)の土地を宛(あ)て行(が)われたならば、居屋敷として「水居船」を構え、大友氏のために「海上御用」の馳走奉公をしたいと記したものです。
「水居船」とは、「家船(えぶね)」との名称で紹介される水上生活船の一種です。一尺屋(いっしゃくや、大分市)を中心とした海部郡の海岸部に領地をもつ若林氏は、陸上の屋敷に加えて、長期間の船上生活に対応可能な船を保有して、水陸両方で活動していたことを証しています。
若林家の古文書には、この他にも、「船誘(ふなごしらえ)」(船の建造)を指示した大友義鎮の書状もあります。西国大名による遣明船の派遣などの広域的な海外交易活動は、海に生きる武士たちの優れた造船や操船の技術に支えられたものと言えるでしょう。
例えば、弘治3(1557)年10月に大友義鎮(よししげ)=宗麟が中国に派遣した船は、中国側の記録では「巨舟」と表現されていて、浙江省舟山島の岑港(しんこう)に入港後、同地で起こった軍事騒動に巻き込まれて沈没しています。ところが、その遣使一行は、そのまま行方不明になったのではなく、翌永禄元(1558)年7月に柯梅(かばい)という村で「桐油(とうゆ)鉄釘」を手に入れて「造舟」をし、11月に船を完成させて島から出港しています。
異国の地で船を失った一行が、木造船の継ぎ目をふさぐ桐油や鉄釘などの造船資材を入手して、わずか4ヶ月の期間で新船を建造できたことは、注目に値します。その背景には、帰国に向けた現地中国人の協力援助があったことに加えて、そもそもその船に、操船のみならず、造船の知識と技術をもつ人物が乗船していたことが推測されるからです。
大友氏領国でそうした立場に適合する家臣としては、例えば、豊後国海部(あまべ)郡を本拠とする若林氏があげられます。同氏末裔に伝わった古文書群のなかには、中世若林氏の海の領主としての特質を示す史料が少なくありません。
「津久見は海辺の事に候条、下され候わば、居屋敷として水居船などを覚悟つかまつり、海上御用などをも涯分馳走(ちそう)致すべく候」。
これは、15世紀後半期の若林仲秀が、海に近い津久見(大分県津久見市)の土地を宛(あ)て行(が)われたならば、居屋敷として「水居船」を構え、大友氏のために「海上御用」の馳走奉公をしたいと記したものです。
「水居船」とは、「家船(えぶね)」との名称で紹介される水上生活船の一種です。一尺屋(いっしゃくや、大分市)を中心とした海部郡の海岸部に領地をもつ若林氏は、陸上の屋敷に加えて、長期間の船上生活に対応可能な船を保有して、水陸両方で活動していたことを証しています。
若林家の古文書には、この他にも、「船誘(ふなごしらえ)」(船の建造)を指示した大友義鎮の書状もあります。西国大名による遣明船の派遣などの広域的な海外交易活動は、海に生きる武士たちの優れた造船や操船の技術に支えられたものと言えるでしょう。
若林氏の本拠一尺屋の下浦(大分市)