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国際文化学部

【エピソード33】陳外郎―九州に下った硫黄調達使節―


陳外郎―九州に下った硫黄調達使節―

日明貿易の輸出硫黄を産出したくじゅう硫黄山

 応永8(1401)年8月、室町幕府の3代将軍足利義満は、中国明朝の建文帝へ国書を送りました。翌年9月、建文帝は返礼の使者をたて、彼らは北山殿(金閣寺)で義満に接見します。ここに、日本と中国の国交が、遣唐使の時代以来およそ500年ぶりに再開されました。以後、16世紀半ばまでのおよそ150年間にわたって、日本から中国へ遣明船が派遣されることになります。
 遣明船による日明貿易は、運搬費や滞在費などすべてを明側が負担するため、船を仕立てる日本側の利益は莫大でした。例えば、8代将軍足利義政の宝徳3(1451)年の遣明船団は、9艘の船に1200人の使節団員が乗り込んだ大規模なもので、船には太刀・刀・扇・銅・硫黄などが積まれていました。なかでも最大の輸出品は、397500斤(きん)の硫黄。「斤」は当時の重さの単位で、1斤はおよそ600グラム。換算すると、238トンに相当します。
 室町幕府は、これほど膨大な量の硫黄をどこから調達したのでしょうか。寛正6(1465)年の遣明船について記した『戊子(ぼし)入明記』には、「硫黄四万斤、大友方・志摩津(島津)方これを進(まい)らす」との記述があります。硫黄は、大友氏領の豊後(くじゅう硫黄山と塚原伽藍岳)と島津氏領の薩摩(硫黄島)で採掘したものだったのです。
 文明13(1481)年6月、足利義尚(よしひさ)は、大友政親(まさちか)に次の御内書(ごないしよ)(将軍の私文書)を送っています。「渡唐の儀につき、硫黄の事、前々のごとく申し付け候はば喜悦(きえつ)候。(中略)なお巨細(こさい)は陳外郎(ちんういろう)に申し含め候也」。幕府は、硫黄を確実に調達するために、陳外郎という人物を豊後と薩摩に派遣したのです。陳外郎は、大友政親と島津忠昌のもとに出向いて将軍御内書を渡し、明への朝貢・貿易品である硫黄の調達に関する義尚の指示を伝達しました。
 室町期の五山文学集『村庵藁(そんあんこう)』によると、中国元代末期の江南路総管陳友諒(ゆうりょう)の一族陳順祖(じゅんそ)が、明代初めに乱を避けて日本に渡り、子孫は日本に定住します。順祖の子が宗寿(そうじゅ)、宗寿の孫が祖田(そでん)で、代々が中国での官職「員外郎(いんがいろう)」を名乗ったようです。この伝承を信用すれば、文明13年に硫黄調達のため九州に下ったのは陳祖田、すなわち渡来唐人の四世陳外郎ということになります。
 なお、陳外郎は、単に唐人として外交上の交渉や通訳に長けていただけではなく、元来は医術治療や投薬の知識・技術に優れた医師であり、また、薩南学派の開祖桂庵玄樹(けいあんげんじゅ)とも交流して漢詩を贈答しあった文化人でした。
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