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国際文化学部

【エピソード32】カンボジア国王船主「握郎烏丕沙哥」―象を載せて豊後へ―


カンボジア国王船主「握郎烏丕沙哥」―象を載せて豊後へ―

 1579年にカンボジア国王サター1世が、クメール語の国王称号「プリヤ・レアッチア・アンチャ」(Preah Reachea Ang Cha)を漢字表記した「浮喇哈力汪加」を名乗って、日本の戦国大名大友義鎮(よししげ)=宗麟に国書を贈ったことは、前回話しました。
 実のところ、カンボジア国王と義鎮の善隣外交関係は、その6年前の1573年にすでに結ばれていました。国宝「島津家文書」によると、この年、義鎮は、カンボジアに向けて交易船を派遣しています。その船は、カンボジアで何らかの破損事故を起こしますが、その「国守(こくしゅ)」(カンボジア国王)から船の修復援助を得て商取り引きを終え、銀子や鹿皮、そしてカンボジア国王からの進物を積み込んで帰国の途につき、折しも嵐に遭遇して薩摩の阿久根(鹿児島県阿久根市)に避難入港しています。
 1573年当時にカンボジア国王に在位していたのは、サター1世の父バロム・レアッチァ1世です。つまり、1573年に大友義鎮がカンボジアに派遣した船の使節はバロム・レアッチァ1世に謁見し、逆に1579年のカンボジアから豊後を目指した使節団は、世代が代わったサター1世による派遣となります。
 バロム・レアッチァ1世とサター1世が在位した16世紀後半のカンボジアは、ポスト・アンコール期と呼ばれる時代でした。カンボジアと聞くとアンコール・ワットが世界的に有名ですが、内陸部に王都をもつアンコール王朝が栄えたのは、9世紀から15世紀、日本の平安から室町時代前半にあたります。その後、アンコールが廃都となった15世紀からフランスがカンボジアを保護国化するまでの間は、現地での歴史研究がほとんど進んでいなく、いまだ謎に包まれた時代です。このポスト・アンコール期に、王都はプノンペン(現首都)や、ロンヴェーク、ウドン(カンダール州)などを変遷します。
 さて、1579年の大友義鎮に宛てたサター1世の国書写しには、例によってカンボジア人の名前が漢字で表記されています。そのうち、国王船主名は「握郎烏丕沙哥」。さすがにこの人物の読みと素性はわかりませんが、もし「握郎」の部分が「握耶」ならば、「オクニャ」というカンボジア宮廷の上級外交官職を意味するようです。日本禅僧の雪岑津興(せっしんしんこう)が国書を書き写す際に、「握耶」を「握郎」とまちがえた可能性は十分ありえます。
 船主「握郎烏丕沙哥」が操る船は、サター1世から義鎮への贈答品の「銅銃」「蜂蝋」、そして「象」と「象簡」(象使い)を搭乗して、シナ海を北上しました。

カンボジアの象と象使い(プノンペン)

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