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国際文化学部

【エピソード30】楊愛有―盂蘭盆会に梵鐘寄進した中国人―


楊愛有―盂蘭盆会に梵鐘寄進した中国人―

 元亀2(1571)年7月13日、豊後府内(大分市)に居住していた2人の中国人が、時宗の称名寺に梵鐘(ぼんしょう)を寄進した話は前回紹介しました。
 寄進主の1人は、浙江省台州市出身の盧高(ろこう)、そしてもう1人は、その南の温州市平陽県出身の楊愛有(ようあいゆう)という人物です。いずれも倭寇活動の活発な浙江省の東シナ海沿岸地域の出身ですから、日本との私貿易活動(明政府が禁じる密貿易活動)に従事して府内に渡来したと推測されます。
 ところで、時宗の宗教行事の念仏踊(ねんぶつおどり)をご存じでしょうか。念仏や和讃(わさん)(仏教歌謡)を唱えながら鉦(しょう)や太鼓を打ち鳴らして踊る芸能で、室町時代後半には「風流踊(ふりゅうおどり)」と呼ばれて各地で流行していました。
 大友義鎮(よししげ)=宗麟の息子大友義統(よしむね)の『当家年中作法日記』には、16世紀の府内で、毎年7月12日と26日に「大風流」を行ったと記しています。記録には、鳥兜(とりかぶと。鳳凰(ほうおう)の頭をかたどったかぶり物)をつけ傍続(そばつぎ。袖なしの羽織)をはおって大鼓(つづみ)で囃(はや)す人々や、扇獅子舞を舞う人々、金箔・銀箔やアジア各地からの舶来衣装で飾り立てて行列を組み、艶やかに振る舞う人々のようすが記されています。現代に例えるならば、若者たちが思い思いに仮装して熱狂するハロウィン・パレードのようなイメージでしょうか。
 実際のところ、義鎮の父親大友義鑑(よしあき)が天文年間(16世紀前半)に家臣に宛てた書状には、「来たる十二日風流の儀申し付け候、急度(きっと)出頭をもって馳走(ちそう)肝要(かんよう)に候」と、7月12日に年中行事として風流祭を開催するので、領内の家臣は府内に集まるよう、7月5日付で命じています。
 16世紀府内の時宗寺院称名寺門前の道場小路や今小路(いまのこうじ)、名(みょう)ケ小路辺り(大分市錦町・顕徳町)で、華麗な衣装を着飾った武士や民衆が行列を組み、舞台で歌舞を舞い、囃し物をともなって群舞していたようすが想起されます。
 さて、陽愛有ら2人の中国人が称名寺に梵鐘を寄進した日付に戻りましょう。7月13日。この日は、府内「大風流」翌日の盂蘭盆会(うらぼんえ)(お盆)にあたるのです。
 2人が梵鐘をこの日付で寄進したのは、明らかに盂蘭盆会の供養を意識した宗教行為です。そしてこのことは、16世紀後半の日本に渡来した中国人たちが、みずからが定住した都市のなかで、日本土着の宗教儀礼や行事に主体的に参画していたことを示しています。
 450年ほど前の戦国時代に渡来中国人が寄進したこの梵鐘は、その後の変遷を経て、現在は岡山県瀬戸内市邑久(おく)町の餘慶寺(よけいじ)に伝わっています。

餘慶寺(岡山県)に伝わる中国人寄進梵鐘

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