【エピソード28】清授―四川に流された遣明使―
清授―四川に流された遣明使―
清授(せいじゅ)は、戦国大名の大友義鎮(よししげ)=宗麟が中国明(みん)に派遣した外交僧です。
嘉靖(かせい)34(1555)年、明王朝が中国沿岸で密貿易を行う倭寇の動きを封じるために、鄭舜功(ていしゅんこう)を日本に派遣した話は、以前に紹介しました。豊後に滞在して義鎮と交渉した鄭舜功は、翌嘉靖35年12月に帰国しますが、その際に、同行して明へ渡ったのが清授です。
中国大陸に渡った清授のその後の動静については、詳細な記録がありません。しかしながら、明王朝の正史『明世宗実録(みんせいそうじつろく)』をめくると、嘉靖38(1559)年4月の部分から、わずか2カ所ながら清授の安否を物語る記述が見つかりました。
一つ目の記録は、「倭の僧清授、四川の寺院に安置さる。はじめ清授は、侍郎(じろう)楊宜(ようぎ)が遣わすところの鄭舜功にしたがって、寧波にいたる」。二つ目は、「清授もとは諸舟とは与(くみ)せず同来す。また定海の七塔寺に居す」。
帰国する鄭舜功に同行した清授は、まず、浙江省の寧波(ニンポー)に上陸したようです。その後、寧波の沖合に浮かぶ舟山島という、日本の種子島ほどの面積の島に移動して、そこの中心都市定海(ていかい)にある七塔寺に数年間居住していたのです。
もともと僧侶だった清授が、中国の寺院に止住(しじゅう)したのは自然の成り行きで、恐らくはそこで僧侶としての修行に勤(いそ)しんだものと思われます。ところが、その後、清授は中国大陸内陸部の四川省の寺院に移住させられています。鄭舜功が著した『日本一鑑(いっかん)』という書物によると、その寺は「四川茂州(もしゅう)の治平寺」でした。
中国の地図を開くと、浙江省舟山島の定海と、四川省の茂州は、直線距離にしておよそ2,000キロ離れています。日本に例えれば北海道から九州までの遙かな道のりです。
清授がこれほどの遠距離を移住させられた理由は何だったのでしょうか。
清授が中国へ渡った翌嘉靖36年、浙江省の舟山島一帯で、倭寇の頭目王直(おうちょく)と明官軍との軍事衝突が勃発します。この軍事争乱のなか、王直を窓口として対明交渉を行っていた大友氏の遣明船団も、海禁を乱す密貿易船団の一味と見なされて、明官軍からの激しい攻撃を受けることになったのです。
清授は事態の打開を画策しますが失敗に終わり、嘉靖38年4月、時の総督胡宗憲(こそうけん)によって四川省の治平寺に流されることになったのです。
『日本一鑑』には、茂州で清授が詠んだ詩が収められていますが、その詩文は、自らの身の潔白を主張し、はるか茂州から祖国日本を想う内容になっています。
嘉靖(かせい)34(1555)年、明王朝が中国沿岸で密貿易を行う倭寇の動きを封じるために、鄭舜功(ていしゅんこう)を日本に派遣した話は、以前に紹介しました。豊後に滞在して義鎮と交渉した鄭舜功は、翌嘉靖35年12月に帰国しますが、その際に、同行して明へ渡ったのが清授です。
中国大陸に渡った清授のその後の動静については、詳細な記録がありません。しかしながら、明王朝の正史『明世宗実録(みんせいそうじつろく)』をめくると、嘉靖38(1559)年4月の部分から、わずか2カ所ながら清授の安否を物語る記述が見つかりました。
一つ目の記録は、「倭の僧清授、四川の寺院に安置さる。はじめ清授は、侍郎(じろう)楊宜(ようぎ)が遣わすところの鄭舜功にしたがって、寧波にいたる」。二つ目は、「清授もとは諸舟とは与(くみ)せず同来す。また定海の七塔寺に居す」。
帰国する鄭舜功に同行した清授は、まず、浙江省の寧波(ニンポー)に上陸したようです。その後、寧波の沖合に浮かぶ舟山島という、日本の種子島ほどの面積の島に移動して、そこの中心都市定海(ていかい)にある七塔寺に数年間居住していたのです。
もともと僧侶だった清授が、中国の寺院に止住(しじゅう)したのは自然の成り行きで、恐らくはそこで僧侶としての修行に勤(いそ)しんだものと思われます。ところが、その後、清授は中国大陸内陸部の四川省の寺院に移住させられています。鄭舜功が著した『日本一鑑(いっかん)』という書物によると、その寺は「四川茂州(もしゅう)の治平寺」でした。
中国の地図を開くと、浙江省舟山島の定海と、四川省の茂州は、直線距離にしておよそ2,000キロ離れています。日本に例えれば北海道から九州までの遙かな道のりです。
清授がこれほどの遠距離を移住させられた理由は何だったのでしょうか。
清授が中国へ渡った翌嘉靖36年、浙江省の舟山島一帯で、倭寇の頭目王直(おうちょく)と明官軍との軍事衝突が勃発します。この軍事争乱のなか、王直を窓口として対明交渉を行っていた大友氏の遣明船団も、海禁を乱す密貿易船団の一味と見なされて、明官軍からの激しい攻撃を受けることになったのです。
清授は事態の打開を画策しますが失敗に終わり、嘉靖38年4月、時の総督胡宗憲(こそうけん)によって四川省の治平寺に流されることになったのです。
『日本一鑑』には、茂州で清授が詠んだ詩が収められていますが、その詩文は、自らの身の潔白を主張し、はるか茂州から祖国日本を想う内容になっています。
清授が滞在した舟山島定海と茂州