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国際文化学部

【エピソード27】寿光―明で密貿易をした遣明使―


寿光―明で密貿易をした遣明使―

寿光らの遣明船が着岸した寧波の川港(中国浙江省)

 寿光(じゅこう)とは、戦国大名大友義鑑(よしあき)が中国の明(みん)に派遣した僧侶の名前です。
 歴史学者の村井章介氏は、『種子島家譜』の天文13(1544)年に明の寧波(ニンポー)に向けて種子島を出港した「二合船」という船の記録を、メンデス・ピントの『東洋遍歴記』の「豊後王国から、多数の商人の乗っている一隻の船が着いた」との記述と比較考証したうえで、この船の派遣者を大友義鑑と推定し、その入明ルートを「はじめ寧波に入港して朝貢(ちょうこう)貿易を求めたが断られ、ついで双嶼(そうしょ)に廻って密貿易を行ない利を得た」と推測しています(『海から見た戦国日本』)。このことは、16世紀半ばの戦国大名大友義鑑による遣明船の派遣が、同じ戦国大名の種子島氏を仲介として実施されていたことを示す興味深い指摘です。
 この遣明使寿光の明での動向については、中国側にも複数の文献史料が残されています。
 まず、鄭舜功(ていしゅんこう)が著した『日本一鑑(いっかん)』という書物のなかには、「僧寿光ら一百五十人来貢するも、期に及ばざるをもって、これをかえす」との記述があります。明王朝の正史『明世宗実録(みんせいそうじつろく)』の嘉靖(かせい)23(1544)年8月の部分にも、「日本は十年一貢を例とす。今の貢はいまだ期に及ばず、かつ表文(ひょうぶん)もなし」と記されています。
 これらの文献史料の記述を総合すると、次のような事実が判明します。まず、天文13年に大友義鑑が明に派遣した使節は、正使寿光をはじめとした総勢150人の大使節団だったということです。その構成員としては、寿光のような外交交渉を担う僧侶のほかに、大友家の家臣の武士たちや、貿易品をあつかう商人たち、そして、大型帆船を航行させる水夫や船を修繕する船大工たちといった、様々な立場の人々が想定できるでしょう。
 また、この遣明船に対してとった中国側の反応もわかります。明側は、前回の取引から5年しか経ておらず、「十年一貢」の原則に反すること、加えて、寿光たちが「表文」を携えていないことを理由に、この船団員の上陸を拒絶したのです。
 当時、明側の取り決めで、貿易取引は10年に1度という制限があり、義鑑の船はそれに違反したものでした。さらに、取引に際して日本側は、「表文」という明の皇帝に献上する手紙と貢物を持参するのがルールで、寿光はその「表文」を持っていませんでした。
 寧波での朝貢手続きに失敗した寿光たちは、その後、沿岸警備の手薄な双嶼の港に入り、明政府の許可を得ない、いわゆる倭寇的密貿易を行って日本に帰国したのです。
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