【エピソード26】蒋洲―西国大名と交渉した「大明副使」―
蒋洲―西国大名と交渉した「大明副使」―
東京大学史料編纂所に「蒋洲咨文(しょうしゅうしぶん)」という興味深い史料が所蔵されています。
この史料は、もとは江戸時代を通じて対馬(つしま)の宗家の所蔵だったものが、20世紀に入って朝鮮総督府から韓国国史編纂委員会の所蔵に移り、その後、東京の古書店を経て東大が購入という複雑な所蔵経緯を有します。400年以上前の史料で文書が竹紙だったこともあり、傷んだ軸を開けられない状況でしたが、2007年からの文化財全面修復で亀裂や剥離の補修が施されました。
その内容は、「大明副使」(中国明(みん)が日本に派遣した使節)の蒋洲が、対馬の戦国大名宗氏に対して、倭寇の禁圧を求めたもので、嘉靖(かせい)35(1556)年11月3日の日付です。また「咨文」とは、当時の中国で対等関係にある役所間のやりとりなどで用いられた公文書を意味します。
16世紀半ばの東シナ海沿岸では、中国、日本、琉球、ポルトガルなどの多民族による私貿易活動が営まれていましたが、その取引は、中国人の私的貿易活動を禁止する明政府による取り締まりの対象でした。「大明副使」の蒋洲も、日本人の密貿易集団を取り締まるため、この前年に日本へ派遣されたのでした。
この咨文によると、蒋洲はまず、日本人が商取引を名目に中国沿岸に侵入して略奪行為を働いている現状を伝え、そうした行為を禁止させるために、自らが明朝の命を受けて日本にやってきたと述べています。そして、具体的な行程として、嘉靖34(1555)年11月11日にまず五島(長崎県五島市)に上陸し、そこから松浦(長崎県松浦市)、博多(福岡市)を経由して、現在は豊後(大分県)に滞在し、「大友氏と会議」したところだと記しています。
蒋洲が「会議」した相手はもちろん戦国大名の大友義鎮(よししげ)=宗麟(そうりん)ですが、蒋洲はこの交渉で義鎮から倭寇禁制への協力を得て、日本各地の海賊衆への「回文(かいぶん)」(海賊行為禁止の命令文)も得たと述べています。対馬の宗氏に宛てた咨文は、その段階で作成されたもので、豊後滞在中の蒋洲が、倭寇禁圧への大友義鎮の後ろ盾を得て、宗氏も取り締まりに協力するように圧力をかけたものと言えます。
蒋洲はその後、山口の戦国大名大内氏のもとにも咨文を送って倭寇禁圧を要求したようで、毛利博物館には「嘉靖参拾伍年拾弐月拾壱日」(嘉靖35年12月11日)付の咨文の包紙が保存されています。大友氏との交渉妥結を軸として、宗氏や大内氏ら周辺大名との交渉を進める。これが、蒋洲の選んだ日中間の外交交渉チャンネルです。
この史料は、もとは江戸時代を通じて対馬(つしま)の宗家の所蔵だったものが、20世紀に入って朝鮮総督府から韓国国史編纂委員会の所蔵に移り、その後、東京の古書店を経て東大が購入という複雑な所蔵経緯を有します。400年以上前の史料で文書が竹紙だったこともあり、傷んだ軸を開けられない状況でしたが、2007年からの文化財全面修復で亀裂や剥離の補修が施されました。
その内容は、「大明副使」(中国明(みん)が日本に派遣した使節)の蒋洲が、対馬の戦国大名宗氏に対して、倭寇の禁圧を求めたもので、嘉靖(かせい)35(1556)年11月3日の日付です。また「咨文」とは、当時の中国で対等関係にある役所間のやりとりなどで用いられた公文書を意味します。
16世紀半ばの東シナ海沿岸では、中国、日本、琉球、ポルトガルなどの多民族による私貿易活動が営まれていましたが、その取引は、中国人の私的貿易活動を禁止する明政府による取り締まりの対象でした。「大明副使」の蒋洲も、日本人の密貿易集団を取り締まるため、この前年に日本へ派遣されたのでした。
この咨文によると、蒋洲はまず、日本人が商取引を名目に中国沿岸に侵入して略奪行為を働いている現状を伝え、そうした行為を禁止させるために、自らが明朝の命を受けて日本にやってきたと述べています。そして、具体的な行程として、嘉靖34(1555)年11月11日にまず五島(長崎県五島市)に上陸し、そこから松浦(長崎県松浦市)、博多(福岡市)を経由して、現在は豊後(大分県)に滞在し、「大友氏と会議」したところだと記しています。
蒋洲が「会議」した相手はもちろん戦国大名の大友義鎮(よししげ)=宗麟(そうりん)ですが、蒋洲はこの交渉で義鎮から倭寇禁制への協力を得て、日本各地の海賊衆への「回文(かいぶん)」(海賊行為禁止の命令文)も得たと述べています。対馬の宗氏に宛てた咨文は、その段階で作成されたもので、豊後滞在中の蒋洲が、倭寇禁圧への大友義鎮の後ろ盾を得て、宗氏も取り締まりに協力するように圧力をかけたものと言えます。
蒋洲はその後、山口の戦国大名大内氏のもとにも咨文を送って倭寇禁圧を要求したようで、毛利博物館には「嘉靖参拾伍年拾弐月拾壱日」(嘉靖35年12月11日)付の咨文の包紙が保存されています。大友氏との交渉妥結を軸として、宗氏や大内氏ら周辺大名との交渉を進める。これが、蒋洲の選んだ日中間の外交交渉チャンネルです。
「蒋洲咨文」(東京大学史料編纂所蔵)