グローバルナビゲーションへ

本文へ

ローカルナビゲーションへ

フッターへ


国際文化学部

【エピソード23】岩田与三兵衛入道―豊後府内の銀商人―


岩田与三兵衛入道―豊後府内の銀商人―

16世紀の古文書に、おもしろい記録が書き残されています。
 「上市(かみいち)の岩田与三兵衛(よさのひょうえ)入道のこと、計屋(はかりや)の儀に候(そうろう)条、上毛(こうげ)郡・下毛郡の売買人は、かの者の所へ罷(まか)り着き肝要」。
 大友氏の奉行人である田原親賢(たわらちかかた)の書状で、天正年間(1570~80年代)のものです。豊後府内の上市町に店舗を構える岩田与三兵衛入道は「計屋」を営んでいるので、豊前の上毛郡(福岡県豊前市・上毛町・吉富町)と下毛郡(大分県中津市)の商売人が府内で商取引を行う際には、まず岩田氏のもとに荷を卸しなさい、との意味です。
 まず、上市町とは、交易都市府内のなかでも最も大分川に近い南北大路沿いに立地していた町で、現在の大分市錦町3丁目にあたります。この町は、11世紀に大分川河口で営まれていた河原市を起源として発展したと想定されます。
 書状は、その上市町で営業する商人岩田氏を、大名公認の「計屋」としたことを豊前方面の商人に周知させるために発給されたものです。
 すべてが標準化された現代の生活に慣れた私たちには想像しがたいことですが、中世日本の社会では、地域や集団によって計量の基準が異なっていました。特に、16世紀後半には、銀流通が急速に進展し、商取引の決済では相手に銀貨を渡すのが一般的です。ただし、その銀貨は、百円玉のような硬貨ではなく、ひとかたまりずつ純度や重さが異なる銀塊(ぎんかい)でしたので、いちいち目利きした上で秤で重さを量らなくてはなりません。さらに、秤自体にも問題があり、同じ1匁(もんめ)でも、ある地域での1匁と別の地域の1匁では、微妙に重さが異なっていました。ですから、府内での商取引で、「上毛郡・下毛郡の売買人」が通常使用している豊前方面の地域秤での計量を主張すれば、取引は混乱し、喧嘩・争論の種となってしまうのです。
 そこで各地の大名は、地域社会の公権力として秤の不正使用を禁止し、円滑な銀流通を促す政策を実施します。大友氏の場合は、計量基準の異なる地域の商取引に際して、実際の取引を行う在地側の計量基準を優先させるとする判断を下し、「上毛郡・下毛郡の売買人」には、上市町の計量商人岩田氏の大名公認秤で銀を計量して取引を行うよう命じたのです。
 「計屋」は、16世紀後半期の銀流通が活発化した日本の市場や港町などの交易の拠点で、銀の計量を担った商人です。取引での計量の慣習は、例えば中国の地方の町の商店に今でも必ず天秤(てんびん)が常備されていることにもつながっています。

露店で今も使用される天秤(中国広東省汕頭(スワトウ))

  1. ホーム
  2.  >  国際文化学部
  3.  >  学部長の「国際日本史学」コラム
  4.  >  【エピソード23】岩田与三兵衛入道―豊後府内の銀商人―