【エピソード22】若林鎮興―大友水軍の大将―
若林鎮興―大友水軍の大将―
若林氏の本貫地一尺屋の上浦(大分市)
中世後期に戦国大名大友氏の水軍組織として活動した若林氏は、豊後の海部(あまべ)地域を舞台に成長を遂げた海の武士です。
若林氏の本貫地は、佐賀関半島南部で臼杵湾に面した一尺屋(いっしゃくや)。黒潮が北上する豊後水道は、伊予の佐田岬と豊後の佐賀関半島が向かい合う豊予海峡(速吸瀬戸(はやすいのせと))で急激に狭まりますが、半島の先端部の佐賀関と、その南方の一尺屋は、ともに外洋航路と内海航路の境界に位置する港町です。
若林家に伝わる古文書は大半が15・16世紀のもので、その内容からは海を基盤とした中世武士の姿が随所にうかがえます。例えば、16世紀初頭の若林源六は大友氏へ「鯛」や「いか」を贈り、また、漁獲のための網に関しても、大友政親(まさちか)が若林源六に「しきあミのいと」(敷網の糸)を催促した事例も散見されます。
元亀3(1572)年頃には、若林家当主の鎮興(しげおき)が一族の三郎に対して、田地と屋敷に加え、「敷網船」の父親からの相続を認めています。海の領主若林氏にとって、海上に浮かぶ船が、陸上で占有する土地や屋敷と並ぶ重要な相続財産だったのです。
数ある古文書の記述のなかで特におもしろいのは、若林一族が操った船のなかに「水居船」というものがあることです。文字通り、これは水上生活船と解釈できます。若林氏は、「水居船」の経営を「居屋敷として」と明言していることから、この船が居住空間を伴う船であったことは間違いないでしょう。一尺屋を中心とした海部の海岸部に領地を有しながら、長期間の船上生活に対応可能な船を経営して、土地・屋敷とともに船を代々相続していたのです。
さて、若林氏が大友氏の家臣となった時期ははっきりしませんが、遅くとも大友氏第12代持直(もちなお)の15世紀前半期には守護大名権力傘下の武士として知行地を宛(あ)て行(が)われています。15・16世紀の守護・戦国大名権力下での若林氏の活動も、船を操っての海上警固や兵船活動に関わるものが多くなります。
例えば、16世紀前半の大友義鑑(よしあき)書状で、義鑑は若林越後守(えちごのかみ)に「兵船」馳走を求め、3日後の来着を要求しています。また、永禄12(1569)年、毛利元就と合戦中の大友義鎮(よししげ)=宗麟は、大内輝弘(てるひろ)を周防(すおう)の秋穂(あいお)(山口市)に上陸させて北部九州に出陣中の毛利軍の裏をかく作戦を実行しますが、この海上戦で若林鎮興は義鎮から「警固船大将」に任命されています。
16世紀後半期の若林氏は、戦国大名大友氏の水軍組織のなかで中核的な役割を果たしていたと推測されます。
若林氏の本貫地は、佐賀関半島南部で臼杵湾に面した一尺屋(いっしゃくや)。黒潮が北上する豊後水道は、伊予の佐田岬と豊後の佐賀関半島が向かい合う豊予海峡(速吸瀬戸(はやすいのせと))で急激に狭まりますが、半島の先端部の佐賀関と、その南方の一尺屋は、ともに外洋航路と内海航路の境界に位置する港町です。
若林家に伝わる古文書は大半が15・16世紀のもので、その内容からは海を基盤とした中世武士の姿が随所にうかがえます。例えば、16世紀初頭の若林源六は大友氏へ「鯛」や「いか」を贈り、また、漁獲のための網に関しても、大友政親(まさちか)が若林源六に「しきあミのいと」(敷網の糸)を催促した事例も散見されます。
元亀3(1572)年頃には、若林家当主の鎮興(しげおき)が一族の三郎に対して、田地と屋敷に加え、「敷網船」の父親からの相続を認めています。海の領主若林氏にとって、海上に浮かぶ船が、陸上で占有する土地や屋敷と並ぶ重要な相続財産だったのです。
数ある古文書の記述のなかで特におもしろいのは、若林一族が操った船のなかに「水居船」というものがあることです。文字通り、これは水上生活船と解釈できます。若林氏は、「水居船」の経営を「居屋敷として」と明言していることから、この船が居住空間を伴う船であったことは間違いないでしょう。一尺屋を中心とした海部の海岸部に領地を有しながら、長期間の船上生活に対応可能な船を経営して、土地・屋敷とともに船を代々相続していたのです。
さて、若林氏が大友氏の家臣となった時期ははっきりしませんが、遅くとも大友氏第12代持直(もちなお)の15世紀前半期には守護大名権力傘下の武士として知行地を宛(あ)て行(が)われています。15・16世紀の守護・戦国大名権力下での若林氏の活動も、船を操っての海上警固や兵船活動に関わるものが多くなります。
例えば、16世紀前半の大友義鑑(よしあき)書状で、義鑑は若林越後守(えちごのかみ)に「兵船」馳走を求め、3日後の来着を要求しています。また、永禄12(1569)年、毛利元就と合戦中の大友義鎮(よししげ)=宗麟は、大内輝弘(てるひろ)を周防(すおう)の秋穂(あいお)(山口市)に上陸させて北部九州に出陣中の毛利軍の裏をかく作戦を実行しますが、この海上戦で若林鎮興は義鎮から「警固船大将」に任命されています。
16世紀後半期の若林氏は、戦国大名大友氏の水軍組織のなかで中核的な役割を果たしていたと推測されます。