【エピソード21】臼杵鑑続―博多を守った作事奉行―
臼杵鑑続―博多を守った作事奉行―
まず、筑前国博多(福岡市)での大友氏の土木事業を物語る史料から紹介しましょう。江戸時代中期成立の『筑前国続風土記』の2つの記述です。
(1)博多南部の瓦町から辻堂にかけて幅20間程の堀の跡があり、宝永6(1709)年現在もその土堤が存在している。この堀を手掛けたのが大友義鎮(よししげ)=宗麟の家臣の臼杵安房守(あわのかみ)鑑続(あきつぐ)であり、彼の官途(かんと)(官職)にちなんで「房州堀(ぼうしゅうぼり)」と称している。堀が掘られたのは元亀・天正の頃(1570~92年)であるが、明暦期(1655~58年)の初めに田地となった。
(2)博多の東部を流れる「石堂川(いしどうがわ)」(今の御笠川(みかさがわ))は、大友氏の家臣臼杵鑑続が開削したものである。それ以前の川(比恵川(ひえがわ))は博多と住吉の間を西流していたため、洪水による水災がしばしば起こっていたが、臼杵氏が開削した川は、博多の手前で川を北流させ、承天寺(じょうてんじ)と聖福寺(しょうふくじ)の裏の松原を横切って博多湾に流入させた。
博多の南を守る「房州堀」の築造と東を限る「石堂川」の開削という2つの大規模工事を、ともに大友氏の家臣臼杵鑑続がおこなったとする近世の記録です。土木事業を証する中世の文献史料が残されておらず、この記述をそのまま史実と断定するわけにはいきません。
しかしながら、房州堀については、1980年代半ば以降の発掘調査によってその実在と実態が部分的に明らかになってきました。また、石堂川の開削についても、承天・聖福両寺の裏から堅粕・吉塚方面にのびる微高地形の人為的分断の様相が指摘されていて、両寺裏の「松原の内を通」して川を貫通させたとする『筑前国続風土記』の記述が地理学的に裏付けられています。
そもそも、房州堀の築造と石堂川の開削という2つの土木工事は、個別のものではなく、互いに関連した都市博多の治水・防御事業と考えることが妥当でしょう。工事の前後関係を推測するならば、それまで博多の南を流れていた比恵川を承天寺の手前で北流させ、次に旧河道付近に堀を築いたと順序づけることができるでしょう。
博多の手前で大きくうねっていた比恵川を真っすぐに博多湾に貫通させることで、洪水災害を防ぐことができるとともに、都市の東に川を開削し、南に堀を築くことで、西の那珂川(なかがわ)、北の博多湾とあわせた都市の防御機能の増強を図ることも可能となったのです。一次史料が残存しないため断定はできませんが、『筑前国続風土記』の記述を正確とするならば、この堀と川の造作は臼杵鑑続を作事奉行とした戦国大名大友義鎮の都市博多における治水・防御事業と考えることができるのです。
(1)博多南部の瓦町から辻堂にかけて幅20間程の堀の跡があり、宝永6(1709)年現在もその土堤が存在している。この堀を手掛けたのが大友義鎮(よししげ)=宗麟の家臣の臼杵安房守(あわのかみ)鑑続(あきつぐ)であり、彼の官途(かんと)(官職)にちなんで「房州堀(ぼうしゅうぼり)」と称している。堀が掘られたのは元亀・天正の頃(1570~92年)であるが、明暦期(1655~58年)の初めに田地となった。
(2)博多の東部を流れる「石堂川(いしどうがわ)」(今の御笠川(みかさがわ))は、大友氏の家臣臼杵鑑続が開削したものである。それ以前の川(比恵川(ひえがわ))は博多と住吉の間を西流していたため、洪水による水災がしばしば起こっていたが、臼杵氏が開削した川は、博多の手前で川を北流させ、承天寺(じょうてんじ)と聖福寺(しょうふくじ)の裏の松原を横切って博多湾に流入させた。
博多の南を守る「房州堀」の築造と東を限る「石堂川」の開削という2つの大規模工事を、ともに大友氏の家臣臼杵鑑続がおこなったとする近世の記録です。土木事業を証する中世の文献史料が残されておらず、この記述をそのまま史実と断定するわけにはいきません。
しかしながら、房州堀については、1980年代半ば以降の発掘調査によってその実在と実態が部分的に明らかになってきました。また、石堂川の開削についても、承天・聖福両寺の裏から堅粕・吉塚方面にのびる微高地形の人為的分断の様相が指摘されていて、両寺裏の「松原の内を通」して川を貫通させたとする『筑前国続風土記』の記述が地理学的に裏付けられています。
そもそも、房州堀の築造と石堂川の開削という2つの土木工事は、個別のものではなく、互いに関連した都市博多の治水・防御事業と考えることが妥当でしょう。工事の前後関係を推測するならば、それまで博多の南を流れていた比恵川を承天寺の手前で北流させ、次に旧河道付近に堀を築いたと順序づけることができるでしょう。
博多の手前で大きくうねっていた比恵川を真っすぐに博多湾に貫通させることで、洪水災害を防ぐことができるとともに、都市の東に川を開削し、南に堀を築くことで、西の那珂川(なかがわ)、北の博多湾とあわせた都市の防御機能の増強を図ることも可能となったのです。一次史料が残存しないため断定はできませんが、『筑前国続風土記』の記述を正確とするならば、この堀と川の造作は臼杵鑑続を作事奉行とした戦国大名大友義鎮の都市博多における治水・防御事業と考えることができるのです。
承天寺の裏を流れる石堂川(現御笠川)