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国際文化学部

【エピソード20】古道―方広寺大仏を造立した漆喰塗り職人―


古道―方広寺大仏を造立した漆喰塗り職人―

 天正16(1588)年、豊臣秀吉は京都に壮大な方広寺(ほうこうじ)大仏を建立するため、日本各地に居住する漆喰(しっくい)塗りの職人を朱印状を出して召集します。
 大仏殿は、鴨川の東岸を南北に貫く大和大路(やまとおおじ)に面して建築され、文禄2(1593)年に上棟、文禄4年にようやく完成します。当時の敷地は、現在の豊国神社と京都国立博物館、そして三十三間堂の敷地をも含む壮大なものでした。
 一方、この時に造立された大仏は、奈良東大寺の大仏より大きく、6丈3尺(約19メートル)の高さを誇っていました。当初は銅造りを予定していましたが、途中で計画を変更し、木造漆喰塗りとされました。しかし、大仏は、完成翌年の文禄5年に発生した慶長大地震のため倒壊してしまいます。現在、豊国神社の境内西側に見られる巨大な石垣は、現存しないかつての方広寺大仏殿の石垣跡なのです。
 さて、この幻の日本一の大仏を造立する際に、秀吉が平戸(長崎県平戸市)の戦国大名松浦(まつら)氏に宛てた朱印状の文面は下の通りです。
 「唐人大工の古道(こどう)、その津にこれあるの由(よし)、聞こし召され候、このたび大仏作事について、御用を仰せ付けらるべくの条、軽船に乗り、早々に差し上(のぼ)るべく候」
 今度の方広寺大仏造立に際し、平戸居住の中国人大工の古道に御用を申し付けるので早々に上京させよ、という内容です。
 さらに、秀吉は、朱印状の文末に、次のように記しています。
 「なお、豊後の宗越(そうえつ)申すべく候なり」
 漆喰塗り職人召集についての詳細は、「豊後の宗越」が直接申し伝える、というのです。
 ここに出てきた「豊後の宗越」とは、戦国時代の豊後の大豪商だった仲屋宗越のことで、中国やカンボジアとの取引を手がけた貿易商人です。秀吉から漆喰塗り職人動員への便宜を求められた宗越は、秀吉朱印状を携えて平戸に渡り、松浦氏の添状(そえじょう)を受け、古道に直接面会して上京を促す役目を果たしたのです。
 貿易商人として東アジアに広がる流通ネットワークを備えていた宗越ですから、それ以前から古道と面識があったことは想像に難くありません。特に、古道は、天正6(1578)年5月に大友義鎮(よししげ)=宗麟から「分国中津々浦々の諸関通道諸公事(くじ)免許せしめおわんぬ」として、大友氏の領国内での通行課税免除の特権を得ています。つまり、仏像造立に欠かせない高度な喰塗り技術を有していた中国人職人古道は、平戸や京都だけでなく、豊後の大友氏のもとでも活躍していたことがわかるのです。

大和大路沿いに残る方広寺大仏殿の石垣(京都市)

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