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国際文化学部

【エピソード2】永徳の父狩野松栄―大友館で障壁画を制作―


永徳の父狩野松栄―大友館で障壁画を制作―

狩野松栄が描いた「花鳥図」

 日本の絵画史のなかで、狩野派は中世末期から近世にかけて巨大な派閥を形成し、時代の画壇をリードしました。特に、創始者狩野正信に始まり、元信、松栄(しょうえい)、永徳へと続く室町・戦国期、狩野派は画壇での支配的地位を確立しました。
 元亀2(1571)年、狩野永徳が臼杵丹生島(にうじま)城の書院に、現存していれば国宝指定間違いなしの襖絵を描いたことは前回述べました。実は、狩野派と大友氏の関わりは、永徳の祖父元信と父松栄の代に始まったものでした。
 天文21(1552)年に、大友義鎮(よししげ)(宗麟)は京都の古刹大徳寺に瑞峯院(ずいほういん)を創建します。『紫野大徳寺明細記』という記録によると、瑞峯院客殿の中の間に永徳の祖父元信が墨絵の「七賢四皓(しちけんしこう)図」を描き、また、礼(らい)の間には父の松栄が彩色の「花鳥図」を描いたことが記されています。
 このうち、狩野元信が描いた「七賢四皓図」とは、古代中国の7人の儒者と4人の仙人を画題とした絵で、元信作品としては東京国立博物館が所蔵する六曲一双の屏風絵が現存します。
 一方、狩野松栄の「花鳥図」の方は、尾道の西国寺をはじめ、海外ではボストン美術館にも六曲一双の屏風絵として伝来しています。義鎮の依頼を受けて描いた「花鳥図」は瑞峯院には現存しませんが、かつて真珠庵蔵の「梅花雄鶏(ばいかゆうけい)図」と称されたものが、その伝来品と言われています。
 瑞峯院客殿画の制作を仮に同院創建の天文21年のことと想定すると、家督を継いで間もない23歳の義鎮が、77歳の元信と34歳の松栄に依頼して作画してもらったものと考えられます。
 さて、天文年間の京都瑞峯院での襖絵の制作を通じて大友氏との関わりをもつようになった狩野松栄は、その後、自ら九州に出向いて、大友氏のもとで創作活動を行うことになります。
 江戸時代初頭に著された『丹青若木集(たんせいじゃくぼくしゅう)』という画伝によると、松栄は豊後の「大友館(やかた)」に赴く途中に厳島(いつくしま)神社に参拝し、「金地極彩色」の「羅城門(らじょうもん)鬼図」を描いて奉納していますが、その図左端の「永禄十二年睦月三日 狩野民部丞藤原直信筆」の落款(らっかん)から、これは永禄12(1569)年1月のこととわかります。
 豊後(ぶんご)へ向かう途中の厳島で「鬼図」を作画できたのは、彼がこの旅に絵の具、絵筆などの本格的画材道具を携行していたからにほかなりません。つまり、永禄12年の狩野松栄の豊後下向は、戦国大名大友義鎮の「大友館」の建物内部での障壁画(しょうへきが)(襖絵や屏風絵)の制作を目的としたものであったと推測できるのです。
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