【エピソード14】明極楚俊 ―豊後を訪れた中国の高僧―
明極楚俊 ―豊後を訪れた中国の高僧―
鎌倉時代の末期、京都の南禅寺に明極楚俊(みんきそしゅん)という中国僧が渡来して来ました。
明極は、南宋の景定3(1262)年、中国の明州昌国(現在の寧波(ニンポー))の生まれです。12歳で出家し、阿育王寺(あいくおうじ)や霊隠寺(れいいんじ)、天童寺などで修行を積み、元代初期の高僧としての地位を確立します。元徳2(1330)年に来日した時には68歳の高齢でした。
日本での明極は、後醍醐天皇の寵愛を受け、その後、北条高時に招かれて鎌倉の建長寺に住します。鎌倉幕府の滅亡後は、再び後醍醐天皇の帰依(きえ)を得て京都にのぼり、南禅寺や建仁寺に歴住しますが、建武3(1336)年に建仁寺方丈にて74歳で入寂(にゅうじゃく)しました。
実は、来日直後の明極が、豊後に逗留していたことが近年の調査でわかってきました。
九州最大の河川筑後川を日田を経由してさかのぼり、分水嶺水分峠(みずわけとうげ)を抜けると、湯布院から豊後府内へは大分川が東流します。博多に上陸した明極は、筑前・筑後からこの山越えの道で豊後に抜け、瀬戸内海から上洛を遂げたのです。
この筑後川ルート中流の日田を訪れた際、明極は領主大蔵永貞(おおくらながさだ)のもとに数ヶ月留まり、新設した寺院の開山となっています。そして明極は、「松陽山嶽林(がくりん)永昌寺」の名をその一宇に与えた、と言うのです。
明極が開山・命名したこの寺は、現日田市友田に臨済宗妙心寺派「松陽山岳林寺(がくりんじ)」として存続します。岳林寺には、大分県指定有形文化財の木造明極楚俊坐像が伝わりますが、檜材の寄木造で、厳しさと暖かさを兼ね備えた写実的な像であり、14世紀後半の作と考えられています。
実は、来日直後の明極を日本で最初に出迎えたのは、大友貞宗(さだむね)でした。明極の詩文のなかに、日本に到着してまだ言葉もままならない明極の「客舎」を貞宗が訪ねて、二人が初対面した時を詠んだものがあり、明極は筆談で言葉を伝え、貞宗は眼で相手の意志をくみ取ろうとしたと記されています。この会談で明極は、貞宗が中国の儀礼に造詣(ぞうけい)が深い人物であることも読み取っています。
鎌倉末期の日本に招かれた明極楚俊は、北条高時と大友貞宗、言い換えれば鎌倉幕府―九州守護の体制のなかで日本に迎え入れられ、貞宗ゆかりの豊後を経由して鎌倉へと導かれました。やがて幕府滅亡という政治変革への対応を迫られた貞宗は、いち早く後醍醐天皇の新体制へ転身します。鎌倉幕府終焉後の明極は、その新政権―守護の体制のなかで動乱期の日本を生きることになったのです。
明極は、南宋の景定3(1262)年、中国の明州昌国(現在の寧波(ニンポー))の生まれです。12歳で出家し、阿育王寺(あいくおうじ)や霊隠寺(れいいんじ)、天童寺などで修行を積み、元代初期の高僧としての地位を確立します。元徳2(1330)年に来日した時には68歳の高齢でした。
日本での明極は、後醍醐天皇の寵愛を受け、その後、北条高時に招かれて鎌倉の建長寺に住します。鎌倉幕府の滅亡後は、再び後醍醐天皇の帰依(きえ)を得て京都にのぼり、南禅寺や建仁寺に歴住しますが、建武3(1336)年に建仁寺方丈にて74歳で入寂(にゅうじゃく)しました。
実は、来日直後の明極が、豊後に逗留していたことが近年の調査でわかってきました。
九州最大の河川筑後川を日田を経由してさかのぼり、分水嶺水分峠(みずわけとうげ)を抜けると、湯布院から豊後府内へは大分川が東流します。博多に上陸した明極は、筑前・筑後からこの山越えの道で豊後に抜け、瀬戸内海から上洛を遂げたのです。
この筑後川ルート中流の日田を訪れた際、明極は領主大蔵永貞(おおくらながさだ)のもとに数ヶ月留まり、新設した寺院の開山となっています。そして明極は、「松陽山嶽林(がくりん)永昌寺」の名をその一宇に与えた、と言うのです。
明極が開山・命名したこの寺は、現日田市友田に臨済宗妙心寺派「松陽山岳林寺(がくりんじ)」として存続します。岳林寺には、大分県指定有形文化財の木造明極楚俊坐像が伝わりますが、檜材の寄木造で、厳しさと暖かさを兼ね備えた写実的な像であり、14世紀後半の作と考えられています。
実は、来日直後の明極を日本で最初に出迎えたのは、大友貞宗(さだむね)でした。明極の詩文のなかに、日本に到着してまだ言葉もままならない明極の「客舎」を貞宗が訪ねて、二人が初対面した時を詠んだものがあり、明極は筆談で言葉を伝え、貞宗は眼で相手の意志をくみ取ろうとしたと記されています。この会談で明極は、貞宗が中国の儀礼に造詣(ぞうけい)が深い人物であることも読み取っています。
鎌倉末期の日本に招かれた明極楚俊は、北条高時と大友貞宗、言い換えれば鎌倉幕府―九州守護の体制のなかで日本に迎え入れられ、貞宗ゆかりの豊後を経由して鎌倉へと導かれました。やがて幕府滅亡という政治変革への対応を迫られた貞宗は、いち早く後醍醐天皇の新体制へ転身します。鎌倉幕府終焉後の明極は、その新政権―守護の体制のなかで動乱期の日本を生きることになったのです。
明極楚俊が修行した阿育王寺(中国浙江省寧波)