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国際文化学部

【エピソード13】中巌円月 ―大友貞宗が援助した渡元僧―


中巌円月 ―大友貞宗が援助した渡元僧―

中巌円月が開山となった青龍山吉祥寺(群馬県川場村)

 群馬県川場村の青龍山吉祥寺。鎌倉の建長寺を本山とする禅寺で、暦応2(1339)年に建長寺42世の中巌円月(ちゅうがんえんげつ)を開山として、大友氏時(うじとき)が創建しました。
 正安2(1300)年生まれの中巌円月は、文保2(1318)年に九州博多から中国の元(げん)への渡航を志しますが認められず、京都の万寿寺や鎌倉の円覚寺で修行に励みます。その後、正中元(1324)年に再び博多を訪れ、翌年秋にようやく入元を果たしました。
 中巌の元での活動は精力的でした。天寧寺、保寧寺、雲巌寺などで修行を重ね、元弘2(1332)年夏、7年ぶりに博多に帰国しています。
 こうした20代後半から30代前半の時期の中巌の活動を援助したのは、氏時の父、大友貞宗(さだむね)でした。『東海一漚集(いちおうしゅう)』という史料によると、渡元再挑戦で九州を訪れた中巌は、まず、豊後の「吉津亀(きつき)」(杵築)で「大友江州(ごうしゅう)」(大友貞宗)と面会しています。これは、貞宗に渡元への口利きと経済的援助を依頼したものでしょう。
 貞宗との会談で感触を得た中巌でしたが、この年の秋に博多に戻って出航の機会を待つものの、渡元は一向に実現しませんでした。そこで中巌は、再度豊後に戻って、貞宗に援助を依頼します。数々の渡元工作を重ねた結果、この年の冬、豊後の「球朱(くす)郡」(玖珠郡)に滞在中の中巌のもとに船の出航の知らせがもたらされ、翌年ついに念願の渡元を遂げたのです。
 一方、帰国後の中巌は、筑前の顕孝寺に滞在しますが、この寺も大友貞宗が建立した臨済宗寺院です。中巌は、帰国翌年には豊後の万寿寺に住して博多との間を行き来するとともに、貞宗に付き従って京都の南禅寺にも赴いています。二人の間には、動乱期の社会で志を等しくする武将と僧侶の同志的関係を読み取ることができるでしょう。
 しかしながら、大友貞宗と中巌円月の関係は、長く続きませんでした。元弘3(1333)年12月3日、貞宗が滞在先の南禅寺で病に倒れ没したからです。
 貞宗の訃報に接した中巌は、長い追悼文を詠んで、その別れを悲しんでいます。貞宗の「仁」と「武」の政治姿勢を称え、生前に後醍醐天皇から受けた多くの勲功を祝す間もなく葬儀を迎えたことを嘆いています。そして、二人の関係については、中巌が貞宗と初めて面識をもった正中元年に、あたかも故友であるかのように迎えてくれたこと、中巌が元に渡る際には別れを惜しんで手を握ってくれたこと、8年ぶりの帰国再会の際には特に厚く待遇してくれたこと、を回想しているのです。
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