グローバルナビゲーションへ

本文へ

ローカルナビゲーションへ

フッターへ


国際文化学部

【エピソード12】林存選 ―宗麟のカンボジア派遣船で九州来航―


林存選 ―宗麟のカンボジア派遣船で九州来航―

カンボジア帰りの大友船が入港した阿久根の港

 明の貿易商人林存選という人物が、豊後府内の豪商仲屋宗越(そうえつ)に宛てた手紙の写しが残されています。
 手紙が取り交わされているということ自体、宗越と林存選がそれ以前の商業活動を通じて旧知の仲であることを物語ります。それによると、林存選は、「柬埔寨(カンボジア)」に渡って商取引を行い、その後、東南アジアでの買付品を携えて九州豊後の宗越のもとに赴こうとしたことがわかります。しかしながら、「天風不順」のため、彼が乗った船は目的地の九州東岸ではなく、西岸の薩摩の阿久根に入港しました。何とか豊後の宗越のもとへ向かいたいと思うものの、「碍船(がいせん)」(船を損傷)したために果たせず、やむを得ず使者を立てて、この手紙と「花幔(かまん)」(カンボジアでピダンやサンポットと呼ばれる花紋様の染織)1枚を宗越に届けます、という内容です。
 カンボジアの物資を携えた林存選は、いったいどのような船に乗って日本にやって来たのでしょうか。
 手紙を詳細に読むと、カンボジアで商取引を行った林存選は、その後、ある人物からの「上恩」を得て、日本行きの船に乗ることを許されたと記しています。しかも、その船は、大風のために当初目的地の豊後ではなく、島津氏領内の阿久根に着船し、その港内で船を損傷し操船できなくなったこともわかります。
 実は、林存選が乗ったこの船の状況に一致する東南アジア帰りの船があります。東京大学史料編纂所所蔵「島津家文書」に出てくる大友宗麟の南蛮派遣船です。「島津家文書」には、天正元(1573)年に宗麟が南蛮国(東南アジアの国)に派遣した船が、帰国途中に島津氏領内の港に係留していたところ、「大風」で破損したと記録されているのです。
 話を総合してみましょう。
 天正元年、大友宗麟はカンボジアへ貿易船を派遣した。ちょうどその時、商取引でカンボジアに逗留していた林存選が大友船の使節と出会い、船が日本の豊後に戻ることを聞いた。以前の取引で豊後の豪商仲屋宗越と旧知の仲であった林存選は、自分も日本へ渡りたいと希望して大友船への客商としての乗船を願ったところ、大友氏側の「上恩」により許可された。林存選を乗せてカンボジアを出発した大友船は、シナ海を北上して九州南方海域まで戻ってきたが、「天風不順」のため九州東岸ルートに入ることができず、薩摩西岸の阿久根に避難入港した。「大風」は港内でも吹き荒れ、係留中の大友船はついに破損し操船不能となった。阿久根に上陸した林存選は、やむを得ずカンボジアから携えてきた「花幔」と手紙を使者に託し宗越に送った。
 異なる2つの史料を総合的に解釈することで、日本・中国・カンボジアをつなぐ貿易取引の実態が見えてくるのです。

  1. ホーム
  2.  >  国際文化学部
  3.  >  学部長の「国際日本史学」コラム
  4.  >  【エピソード12】林存選 ―宗麟のカンボジア派遣船で九州来航―