【エピソード11】上野統知(むねとも) ―11歳で中国へ渡る―
上野統知(むねとも) ―11歳で中国へ渡る―
上野一族が活動した豊後水道
中世後期の日本社会のなかで、東アジア諸国との交易を最も積極的に進めた守護・戦国大名は、周防山口を本拠に博多商人と手を組んだ大内氏です。特に、15世紀半ば過ぎの大内氏は、それまでの対朝鮮交易に加えて、中国の明(みん)との交易に主体的に乗り出していきます。そして16世紀初頭の大内義興(よしおき)は、遣明船の経営で対抗する細川氏勢力を退け、やがて大内義隆の代になると、天文7(1538)年度と天文16(1547)年度の2度の遣明船経営の独占を勝ち取ります。
こうして実現した天文年間の遣明船事業は、大内氏と山口に莫大な利益をもたらしたと言われます。しかしながら、最近の研究では、日明貿易を行う遣明船の経営が、必ずしも大内氏と博多商人によって完全独占されたものではないことがわかってきました。
例えば、天文7年度の遣明船では、池永新兵衛、石田与三五郎、岩井七郎左衛門ら堺の商人が博多商人に交じって渡航しています。また、天文16年度派遣の4号船の船頭は「さつま田中豊前守(ぶぜんのかみ)」だったことも記録されています。一見大内氏と博多商人が独占経営したように見える天文年間の遣明船にも、堺や薩摩の人物が商人や船頭として乗り込み、船団利益の配分を受けていたのです。
さらに、こうした事態は商人だけの問題ではありませんでした。
豊後大友氏の家臣に、上野氏という一族がいます。上野家に関わる史料は現在は大分と対馬に分散して伝わっていますが、それによると、中世の上野氏は、豊後水道に面する臼杵湾沿岸の佐賀関から臼杵荘にかけて領地をもち、船を操って活動する海の武士衆だったことがわかります。そして、この上野家末裔に伝わる「家譜(かふ)」(家系図)のなかに、天文年間の上野統知(むねとも)について、「大内義隆ニ頼リ、天文十六未年(ひつじどし)、義隆明(みん)ニ公使ノ時、十一歳ニテ随兵」したとの記録が残されているのです。
その後、豊後に戻った上野統知は、天正年間の戦乱戦では海上合戦での軍功で大友氏より褒美を受け、主家没落後の慶長5(1600)年に64歳で没しています。
統知のほかに、叔父の上野親俊(ちかとし)についても、弘治2(1556)年に豊後を訪れた明からの使者が山口に向かう際に、「軍船惣頭(そうがしら)」として大内氏領の赤間関(あかまがせき)目前の小倉まで護送したことが記されています。
上野統知が若干11歳で中国に渡る大内氏の遣明船に乗船できたのは、操船技術や海上での軍事行動に極めて優れた海の武士衆上野氏家伝の能力を買われたものと言えるでしょう。
こうして実現した天文年間の遣明船事業は、大内氏と山口に莫大な利益をもたらしたと言われます。しかしながら、最近の研究では、日明貿易を行う遣明船の経営が、必ずしも大内氏と博多商人によって完全独占されたものではないことがわかってきました。
例えば、天文7年度の遣明船では、池永新兵衛、石田与三五郎、岩井七郎左衛門ら堺の商人が博多商人に交じって渡航しています。また、天文16年度派遣の4号船の船頭は「さつま田中豊前守(ぶぜんのかみ)」だったことも記録されています。一見大内氏と博多商人が独占経営したように見える天文年間の遣明船にも、堺や薩摩の人物が商人や船頭として乗り込み、船団利益の配分を受けていたのです。
さらに、こうした事態は商人だけの問題ではありませんでした。
豊後大友氏の家臣に、上野氏という一族がいます。上野家に関わる史料は現在は大分と対馬に分散して伝わっていますが、それによると、中世の上野氏は、豊後水道に面する臼杵湾沿岸の佐賀関から臼杵荘にかけて領地をもち、船を操って活動する海の武士衆だったことがわかります。そして、この上野家末裔に伝わる「家譜(かふ)」(家系図)のなかに、天文年間の上野統知(むねとも)について、「大内義隆ニ頼リ、天文十六未年(ひつじどし)、義隆明(みん)ニ公使ノ時、十一歳ニテ随兵」したとの記録が残されているのです。
その後、豊後に戻った上野統知は、天正年間の戦乱戦では海上合戦での軍功で大友氏より褒美を受け、主家没落後の慶長5(1600)年に64歳で没しています。
統知のほかに、叔父の上野親俊(ちかとし)についても、弘治2(1556)年に豊後を訪れた明からの使者が山口に向かう際に、「軍船惣頭(そうがしら)」として大内氏領の赤間関(あかまがせき)目前の小倉まで護送したことが記されています。
上野統知が若干11歳で中国に渡る大内氏の遣明船に乗船できたのは、操船技術や海上での軍事行動に極めて優れた海の武士衆上野氏家伝の能力を買われたものと言えるでしょう。