【エピソード10】天王寺屋道叱―義統を見舞った堺豪商―
天王寺屋道叱―義統を見舞った堺豪商―
かつて天王寺屋屋敷があった堺の「大小路筋」
天王寺屋(津田家)は、大阪堺のメインストリート「大小路(おおしょうじ)」に屋敷を構えていた豪商家です。
文禄2(1593)年、大友義鎮(宗麟)の息子義統(よしむね)は、朝鮮出兵中の不戦功を理由に豊臣秀吉から除国され、当初山口の毛利輝元、そして翌年には水戸の佐竹義宣のもとに幽閉されます。この義統が山口から水戸へ移される途中の「尼崎において御見廻として参上衆」という記録があります。水戸への移動の途中、尼崎(兵庫県)に逗留した義統を見舞った人物の名と見舞品を書き上げたものです。そのわずか44名の見舞者のなかに、堺の豪商天王寺屋道叱(どうしつ)がいます。
「小袖(こそで)」「帯」「樽肴(たるさかな)」「銀子(ぎんす)」などの衣服・食料・金銭の見舞品を義統に贈っているのは、いかにも道叱の商人的性格を物語っていて興味深いのですが、領国を失って幽閉の身にある元戦国大名に最多の見舞品を持って伺候(しこう)した道叱の行動からは、単なる大名と豪商の利害結合を超越した、両者の人間的関係を指摘することができます。
そもそも道叱は、豪商天王寺屋の商業ネットワークのなかで、特に九州方面に窓口を開いて在地との縁故関係を深めた人物でした。『天王寺屋会記』という茶会記録によると、堺の天王寺屋には博多豪商の嶋井宗室や神屋宗湛(そうたん)が出入りしていたことがわかります。また、1560~80年代にかけては、道叱自身が頻繁に豊後に出かけています。この堺豪商天王寺屋の度重なる豊後下向の裏に、大友氏との関係が隠されているだろうことは想像に難くありません。
道叱と大友氏の関係を示す興味深い記録が2件あります。
まず1つ目は、天正14(1586)年4月5日に、大友義鎮が秀吉の援軍を請うべく大坂城に参上した際のものです。この大友氏が豊臣政権を上級権力と仰ぐ日の2日前の朝、義鎮は数名の家臣を伴って堺の天王寺屋を訪問し、茶湯の接待を受けています。『天王寺屋会記』では、茶会列席者名の最後に「後ニ道叱」と記録されています。宗麟の忍びでの訪問の知らせを受け、馳せ遅参した道叱の姿を想起させる記述です。
2つ目は、天正16(1588)年2月27日に、義統が京都の聚楽第に出向いて秀吉に謁見した際のものです。やはり同19日昼、義統は道叱の4畳敷座敷で茶湯の接待を受けています。
堺豪商天王寺屋道叱と豊後の大名大友義鎮そして義統は、茶湯という桃山時代特有の媒体を通して、単なる経済的利害結合を超越した、より強固な人間的関係を醸成していったことが推測されるのです。
文禄2(1593)年、大友義鎮(宗麟)の息子義統(よしむね)は、朝鮮出兵中の不戦功を理由に豊臣秀吉から除国され、当初山口の毛利輝元、そして翌年には水戸の佐竹義宣のもとに幽閉されます。この義統が山口から水戸へ移される途中の「尼崎において御見廻として参上衆」という記録があります。水戸への移動の途中、尼崎(兵庫県)に逗留した義統を見舞った人物の名と見舞品を書き上げたものです。そのわずか44名の見舞者のなかに、堺の豪商天王寺屋道叱(どうしつ)がいます。
「小袖(こそで)」「帯」「樽肴(たるさかな)」「銀子(ぎんす)」などの衣服・食料・金銭の見舞品を義統に贈っているのは、いかにも道叱の商人的性格を物語っていて興味深いのですが、領国を失って幽閉の身にある元戦国大名に最多の見舞品を持って伺候(しこう)した道叱の行動からは、単なる大名と豪商の利害結合を超越した、両者の人間的関係を指摘することができます。
そもそも道叱は、豪商天王寺屋の商業ネットワークのなかで、特に九州方面に窓口を開いて在地との縁故関係を深めた人物でした。『天王寺屋会記』という茶会記録によると、堺の天王寺屋には博多豪商の嶋井宗室や神屋宗湛(そうたん)が出入りしていたことがわかります。また、1560~80年代にかけては、道叱自身が頻繁に豊後に出かけています。この堺豪商天王寺屋の度重なる豊後下向の裏に、大友氏との関係が隠されているだろうことは想像に難くありません。
道叱と大友氏の関係を示す興味深い記録が2件あります。
まず1つ目は、天正14(1586)年4月5日に、大友義鎮が秀吉の援軍を請うべく大坂城に参上した際のものです。この大友氏が豊臣政権を上級権力と仰ぐ日の2日前の朝、義鎮は数名の家臣を伴って堺の天王寺屋を訪問し、茶湯の接待を受けています。『天王寺屋会記』では、茶会列席者名の最後に「後ニ道叱」と記録されています。宗麟の忍びでの訪問の知らせを受け、馳せ遅参した道叱の姿を想起させる記述です。
2つ目は、天正16(1588)年2月27日に、義統が京都の聚楽第に出向いて秀吉に謁見した際のものです。やはり同19日昼、義統は道叱の4畳敷座敷で茶湯の接待を受けています。
堺豪商天王寺屋道叱と豊後の大名大友義鎮そして義統は、茶湯という桃山時代特有の媒体を通して、単なる経済的利害結合を超越した、より強固な人間的関係を醸成していったことが推測されるのです。