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国際文化学部

【エピソード1】狩野永徳―臼杵城で襖絵を制作―


狩野永徳―臼杵城で襖絵を制作―

狩野永徳が描いた国宝「花鳥図」襖絵(大徳寺聚光院)

 日本画壇の名人のなかで、狩野永徳(かのうえいとく)の名前を知らない人はいないでしょう。24歳の若さで三好長慶(ながよし)の菩提寺大徳寺聚光院(じゅこういん)の襖絵を父松栄(しょうえい)とともに制作し、その後、天正4(1576)年の安土築城の際には、織田信長のために天守や城内御殿の障壁画(しょうへきが)の制作を行ったことはあまりにも有名です。国宝「檜図(ひのきず)屏風」(東京国立博物館蔵)や「唐獅子図(からじしず)屏風」(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)に象徴される豪壮華麗でエネルギッシュな作風は、戦国大名たちが求めた精神的気質に合致します。
 永徳が九州豊後(ぶんご)の大友氏のもとを訪ねたのは、元亀2(1571)年。大友義鎮(よししげ)(宗麟)が、臼杵に建設した丹生島(にうじま)城(現在の臼杵公園)の書院の襖絵を制作するために、彼と弟の宗秀(そうしゅう)を都から招いたのです。
 永徳兄弟が丹生島城書院の襖に描いたのは「帝鑑(ていかん)図」と「花鳥図」。いったいどのような図柄の作品だったのでしょうか。
 実は、京都の大徳寺聚光院方丈の室中(しっちゅう)に、まさに永徳画の特徴とも言える力強さにあふれた国宝「花鳥図」襖絵が現存します。南に枯山水の庭園と広縁を設けた方丈の室中では、東から北、そして西面へと連なる襖16枚が長大なキャンバスとなっており、そこに永徳が、松と梅花の巨木、そして鶯(うぐいす)・鶺鴒(せきれい)・鶴などの鳥をダイナミックに描き込んだのです。それは、建築に付随してコの字型に組まれた襖の特性を生かした三次元画面の見事な構図となっており、永徳の代表作として国宝に指定されています。
 聚光院方丈での「花鳥図」の制作は永禄9(1566)年のことで、臼杵丹生島城書院での同図制作の5年前にあたります。聚光院の国宝作品を意匠、構図ともにさらに進化させた「花鳥図」が、臼杵丹生島城で創作されていたのです。
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