【エピソード62】橋爪鑑実―大友晴英を支えた忠臣―
橋爪鑑実―大友晴英を支えた忠臣―
大友義鎮(よししげ)(宗麟)が、弟晴英(はるふさ)を大内義隆没後の周防大内家に送り込んで「大内義長」政権を樹立した話は前回しました。晴英が大内家家督を継承した天文21(1552)年から、毛利氏によって自刃に追い込まれた弘治3(1557)年までの5年間は、中国地方から九州にかけて大内=大友連合という兄弟戦国大名による日本最大の政権が成立した時期でした。
兄の大友義鎮が、弟晴英の大内家入りに際して策略を練っていたことを示す史料を紹介しましょう(「麻生氏旧蔵史料」)。
「上国につき、宿誘(やどこしらえ)等の事、馳走の趣、慥(たし)かに承知せしめ候、しからば俄(にわか)に義鎮異見(いけん)に任(まか)せ、船をもって発足せしむるの条、右費煩(ひはん)の段、連々感悦せしむべく候、聊(いささ)かも忘却あるべからず候、なお橋爪(はしづめ)美濃守(みののかみ)申すべく候」。
正月27日付け大友晴英書状です。宛書きは「仏巌寺」となっており、筑前国鞍手郡笠松村(福岡県宮若市)の浄土真宗玉泉山仏巌寺と考えられます。
晴英は、自らが家督を継ぐ大内家の山口に上ることを「上国」と表現。実際に「上国」したのは天文21年3月3日ですので、史料はその1ヶ月程前のものとなります。
山口入りに際して、晴英は、豊後からの陸路の複数の場所で「宿誘」(新当主一行の宿泊所の普請)を命じたようで、仏巌寺もその作事を進めていたようです。ところが、兄義鎮の「異見」(提案)で、陸路ではなく、船による海路で山口入りすることが急に決まったのです。そこで晴英は、すでに宿普請を進めていた仏巌寺にその出費と煩(わずら)いを謝し、奉公の意志を忘却しない旨を認(したた)め、随臣の橋爪鑑実(あきざね)に託してこの書状を送ったのです。
書状から、義鎮が晴英の山口入りに反対するどころか、自ら妙案を出して、弟の大内家館(やかた)入りを演出した事実が判明します。実は、この「船をもって発足」する当主山口入りは、大内氏の祖琳聖太子(りんしょうたいし)伝説の故事にならったものです。大内家のルーツは朝鮮半島百済(くだら)の王族で、推古天皇19(611)年、百済の聖明王の子琳聖太子が、海を渡って周防国多々良(たたら)浜(山口県防府市)に上陸し、聖徳太子から多々良姓と領地大内県(おおうちあがた)を賜ったとの伝説です。
大内家の新当主としての正当性を内外に示すため、義鎮は、陸路での山口入りを中断させ、海路から多々良浜に上陸して大内館に入るよう「異見」したのです。晴英は、兄の提案に沿って、天文21年2月29日に多々良浜に着船し、3月3日に館入りします。そして、随臣橋爪鑑実が、その準備段階から奔走して、新政権を支えたのです。
兄の大友義鎮が、弟晴英の大内家入りに際して策略を練っていたことを示す史料を紹介しましょう(「麻生氏旧蔵史料」)。
「上国につき、宿誘(やどこしらえ)等の事、馳走の趣、慥(たし)かに承知せしめ候、しからば俄(にわか)に義鎮異見(いけん)に任(まか)せ、船をもって発足せしむるの条、右費煩(ひはん)の段、連々感悦せしむべく候、聊(いささ)かも忘却あるべからず候、なお橋爪(はしづめ)美濃守(みののかみ)申すべく候」。
正月27日付け大友晴英書状です。宛書きは「仏巌寺」となっており、筑前国鞍手郡笠松村(福岡県宮若市)の浄土真宗玉泉山仏巌寺と考えられます。
晴英は、自らが家督を継ぐ大内家の山口に上ることを「上国」と表現。実際に「上国」したのは天文21年3月3日ですので、史料はその1ヶ月程前のものとなります。
山口入りに際して、晴英は、豊後からの陸路の複数の場所で「宿誘」(新当主一行の宿泊所の普請)を命じたようで、仏巌寺もその作事を進めていたようです。ところが、兄義鎮の「異見」(提案)で、陸路ではなく、船による海路で山口入りすることが急に決まったのです。そこで晴英は、すでに宿普請を進めていた仏巌寺にその出費と煩(わずら)いを謝し、奉公の意志を忘却しない旨を認(したた)め、随臣の橋爪鑑実(あきざね)に託してこの書状を送ったのです。
書状から、義鎮が晴英の山口入りに反対するどころか、自ら妙案を出して、弟の大内家館(やかた)入りを演出した事実が判明します。実は、この「船をもって発足」する当主山口入りは、大内氏の祖琳聖太子(りんしょうたいし)伝説の故事にならったものです。大内家のルーツは朝鮮半島百済(くだら)の王族で、推古天皇19(611)年、百済の聖明王の子琳聖太子が、海を渡って周防国多々良(たたら)浜(山口県防府市)に上陸し、聖徳太子から多々良姓と領地大内県(おおうちあがた)を賜ったとの伝説です。
大内家の新当主としての正当性を内外に示すため、義鎮は、陸路での山口入りを中断させ、海路から多々良浜に上陸して大内館に入るよう「異見」したのです。晴英は、兄の提案に沿って、天文21年2月29日に多々良浜に着船し、3月3日に館入りします。そして、随臣橋爪鑑実が、その準備段階から奔走して、新政権を支えたのです。

大内家の祖琳聖太子の供養塔(山口市)


