【エピソード61】大友晴英―大内家を継いで兄弟連合政権を実現―
大友晴英―大内家を継いで兄弟連合政権を実現―
大友晴英(はるふさ)は、義鎮(よししげ)(宗麟)の弟で、天文21(1552)年3月に、義隆没後の周防大内家の第32代家督を継いで「大内義長」を名乗った戦国大名です。
これまで、晴英=大内義長の治世は、大内義隆の排斥に成功した陶隆房(すえたかふさ)による傀儡(かいらい)政権として否定的に評価されてきました。また、大友義鎮自身、弟の晴英の周防山口入りには懐疑的で、反対を押し切って大内家入りした晴英が5年後の弘治3(1557)年に毛利元就に攻められた際、援軍を送らずに見殺しにしたとされています。
しかしながら、実は兄義鎮が弟晴英の大内家継嗣に反対したことを証する確かな一次史料は存在せず、逆に義鎮が晴英の山口入りを積極的に後押ししていたことを示す複数の史料が存在します。
例えば、大友義鎮が橋爪(はしづめ)治部丞(じぶのじょう)に宛てた6月29日付け書状の次の文言。「晴英内々の儀として下国候、節々往反をなすべくの条、筑後国中において六町分を預け置き候、知行あるべく候」。
宛書の大友家家臣橋爪治部丞は、晴英に付き従って山口に入り、後に大内義長政権の奉行人となった橋爪美濃守(みののかみ)鑑実(あきざね)かその一族です。大友義鎮は橋爪氏に対して、晴英が内々に山口に向かうことを告げ、その随臣として周防・豊後間をたびたび往反することになるため、筑後国内の6町分の土地を知行地(ちぎょうち)として与えることを伝えています。
義鎮の花押から、この知行預け状は天文20(1551)年か21年のものと限定できますが、仮に21年6月のものとすると、晴英の周防入国の3ヶ月後の差し出しとなってしまい、晴英の山口入りを「内々の儀」と表現する意味を損じてしまいます。そのため、この書状は、天文20年6月29日の発給と考えられます。
このように、陶隆房による大内義隆排斥のクーデターから大友晴英の大内家入り、そしてその後の大内義長政権の樹立という、一連の周防山口での政変には、実は隆房と「内々」に結んだ大友義鎮の積極的な意志が反映されていました。そもそも、大友晴英の大内家継嗣政略は、義鎮・晴英兄弟の母が大内義興(よしおき)(義隆の父)の娘であることに加えて、かつて大内義隆も自身に実子がない場合の猶子(ゆうし)として、大内家から大友家に嫁した姉の子晴英を指名していた経緯を踏まえた、最良の後継戦略と言えます。弟晴英が大内家家督を継承することで実現する大内=大友連合に、兄義鎮は政治・軍事・外交等の様々な面で多大な期待と希望を重ねていたのです。
これまで、晴英=大内義長の治世は、大内義隆の排斥に成功した陶隆房(すえたかふさ)による傀儡(かいらい)政権として否定的に評価されてきました。また、大友義鎮自身、弟の晴英の周防山口入りには懐疑的で、反対を押し切って大内家入りした晴英が5年後の弘治3(1557)年に毛利元就に攻められた際、援軍を送らずに見殺しにしたとされています。
しかしながら、実は兄義鎮が弟晴英の大内家継嗣に反対したことを証する確かな一次史料は存在せず、逆に義鎮が晴英の山口入りを積極的に後押ししていたことを示す複数の史料が存在します。
例えば、大友義鎮が橋爪(はしづめ)治部丞(じぶのじょう)に宛てた6月29日付け書状の次の文言。「晴英内々の儀として下国候、節々往反をなすべくの条、筑後国中において六町分を預け置き候、知行あるべく候」。
宛書の大友家家臣橋爪治部丞は、晴英に付き従って山口に入り、後に大内義長政権の奉行人となった橋爪美濃守(みののかみ)鑑実(あきざね)かその一族です。大友義鎮は橋爪氏に対して、晴英が内々に山口に向かうことを告げ、その随臣として周防・豊後間をたびたび往反することになるため、筑後国内の6町分の土地を知行地(ちぎょうち)として与えることを伝えています。
義鎮の花押から、この知行預け状は天文20(1551)年か21年のものと限定できますが、仮に21年6月のものとすると、晴英の周防入国の3ヶ月後の差し出しとなってしまい、晴英の山口入りを「内々の儀」と表現する意味を損じてしまいます。そのため、この書状は、天文20年6月29日の発給と考えられます。
このように、陶隆房による大内義隆排斥のクーデターから大友晴英の大内家入り、そしてその後の大内義長政権の樹立という、一連の周防山口での政変には、実は隆房と「内々」に結んだ大友義鎮の積極的な意志が反映されていました。そもそも、大友晴英の大内家継嗣政略は、義鎮・晴英兄弟の母が大内義興(よしおき)(義隆の父)の娘であることに加えて、かつて大内義隆も自身に実子がない場合の猶子(ゆうし)として、大内家から大友家に嫁した姉の子晴英を指名していた経緯を踏まえた、最良の後継戦略と言えます。弟晴英が大内家家督を継承することで実現する大内=大友連合に、兄義鎮は政治・軍事・外交等の様々な面で多大な期待と希望を重ねていたのです。

大友晴英の山口入りを「内々の儀」と表現する大友義鎮書状(「橋爪文書」)


