【エピソード60】平林兵部丞―佐賀郷の「道作奉行」―
平林兵部丞―佐賀郷の「道作奉行」―
日本の戦国時代は、大規模土木工事の時代と言われます。戦国大名の公共土木事業として、例えば、16世紀半ばの武田信玄による「信玄堤(しんげんづつみ)」の治水事業が有名でしょう。
公権力が大規模土木事業を進めるには、当然のことながら、現場で具体的工事に従事する延べ数万~数十万人の労働力が必要です。膨大な夫役(ぶやく)の需要に際し、大名たちは、どのような動員論理を掲げたのでしょうか。
豊後の大友家の「年中儀式次第」によると、同家の正月儀礼として、家臣団への接見や振舞、評定初めなどの各種式次第があるなかに、「井手溝の事」と「国中道作の事」の2項目が含まれていることが注目されます。戦国大名が、「井手」や「溝」、「道作」といった公共性の高いインフラ整備を、自らの施政課題と位置づけていたことを示しています。
特に、「道作」については、大友義統(よしむね)が天正18(1590)年に、豊後国佐賀郷(さがのごう)(大分市坂ノ市から佐賀関一帯)での「道作奉行」として平林兵部丞(ひょうぶのじょう)ら3人を任じ、横幅6尺(約2メートル)の道を2間(約3・6メートル)単位で造成することを命じた史料が残されています。「よこ六尺」という具体的な道幅と、その土木工事への夫役が領国内の郷ごとを単位とする「郷役(ごうやく)」という基準で動員されたことを示す興味深い史料です。
そして、さらに注目されるのは、その郷役が「天下」の「御下知(げち)」を根拠として徴集されている点です。天正18年の大友義統は、すでに豊臣秀吉を上級権力として仰いだ時期に入っており、この段階での地域大名による土木事業の労働力が、統一政権からの「御下知」(秀吉の命令)を論理として動員されたことを明示しているのです。
大友家家臣の平林氏は、佐賀郷に隣接する大野川河口の高田荘が本貫です。統一政権をバックに主君義統が発した命令に従い、府内と佐賀関を結ぶ公道の造成に奉行として全力を注いだことでしょう。江戸時代の史料ですが、「肥後国絵図」のなかの「佐賀関の図」に、町をY字に貫く道路と木戸が描かれ、「ツルサキ(鶴崎)ヨリ五里」の道程も見えます。
地域公権力が進めた公共性の高いインフラ整備事業については、江戸時代に幕府や諸藩が主導的に推進し、それが近代以降の社会経済の発展に大きく寄与したことは、これまでも指摘されています。が、同様な公権力意識をもつ戦国大名の領国でも、特に武田信玄や大友義統ら一部の先進的な大名権力のもとでその先駆的な取り組みがなされていたことが、注目に値します。
公権力が大規模土木事業を進めるには、当然のことながら、現場で具体的工事に従事する延べ数万~数十万人の労働力が必要です。膨大な夫役(ぶやく)の需要に際し、大名たちは、どのような動員論理を掲げたのでしょうか。
豊後の大友家の「年中儀式次第」によると、同家の正月儀礼として、家臣団への接見や振舞、評定初めなどの各種式次第があるなかに、「井手溝の事」と「国中道作の事」の2項目が含まれていることが注目されます。戦国大名が、「井手」や「溝」、「道作」といった公共性の高いインフラ整備を、自らの施政課題と位置づけていたことを示しています。
特に、「道作」については、大友義統(よしむね)が天正18(1590)年に、豊後国佐賀郷(さがのごう)(大分市坂ノ市から佐賀関一帯)での「道作奉行」として平林兵部丞(ひょうぶのじょう)ら3人を任じ、横幅6尺(約2メートル)の道を2間(約3・6メートル)単位で造成することを命じた史料が残されています。「よこ六尺」という具体的な道幅と、その土木工事への夫役が領国内の郷ごとを単位とする「郷役(ごうやく)」という基準で動員されたことを示す興味深い史料です。
そして、さらに注目されるのは、その郷役が「天下」の「御下知(げち)」を根拠として徴集されている点です。天正18年の大友義統は、すでに豊臣秀吉を上級権力として仰いだ時期に入っており、この段階での地域大名による土木事業の労働力が、統一政権からの「御下知」(秀吉の命令)を論理として動員されたことを明示しているのです。
大友家家臣の平林氏は、佐賀郷に隣接する大野川河口の高田荘が本貫です。統一政権をバックに主君義統が発した命令に従い、府内と佐賀関を結ぶ公道の造成に奉行として全力を注いだことでしょう。江戸時代の史料ですが、「肥後国絵図」のなかの「佐賀関の図」に、町をY字に貫く道路と木戸が描かれ、「ツルサキ(鶴崎)ヨリ五里」の道程も見えます。
地域公権力が進めた公共性の高いインフラ整備事業については、江戸時代に幕府や諸藩が主導的に推進し、それが近代以降の社会経済の発展に大きく寄与したことは、これまでも指摘されています。が、同様な公権力意識をもつ戦国大名の領国でも、特に武田信玄や大友義統ら一部の先進的な大名権力のもとでその先駆的な取り組みがなされていたことが、注目に値します。

「佐賀郷道作奉行任符(にんぷ)」(「平林文書」)


