【エピソード59】賀来兵部少輔―「荏隈郷井手」を開削―
賀来兵部少輔―「荏隈郷井手」を開削―
大友義鎮(よししげ)の息子義統(よしむね)が、賀来(かく)兵部少輔(ひょうぶしょうゆう)と吉良越中入道に宛てた興味深い書状があります。
「荏隈郷(えのくまごう)井手の儀について、辛労(しんろう)の由肝要(かんよう)に候、しかるといえども、いまだ首尾通り申さず候、かの調(ととの)え第一の事に候の間、前々の辻、堅固に催促を遂げられ、急度(きっと)成就(じょうじゅ)候よう申し付けらるべく候」。書状は、天正16(1588)~文禄元(1592)年の間のものです。
冒頭の「荏隈郷」とは、現在の大分市荏隈地区のことで、そこで進めている「井手」の造営工事がいまだ未完成のため、義統は、「かの調え第一」「急度成就」との強い表現で、当初の予定通りに人夫を催促して完成させるよう、ふたりの家臣に督促しているのです。
では、この「荏隈郷井手」の作事は何を目的としたもので、この土木事業の全貌はどのような内容だったのでしょうか。
元禄11(1698)年に戸倉貞則が著した『豊府聞書(ほうふききがき)』の異本『豊府紀聞(きぶん)』のなかに、次の記述があります。「大友義統、東院(とい)川より荏隈郷ならびに笠和郷に至る井手を成し、国の井手と名づく」。大友義統が、大分川の支流東院川(賀来川)の取水口から荏隈・笠和両郷に至る井手を完成させ、「国の井手」と称したとあります。
また、近世府内藩の儒者阿部淡斎(たんさい)が天保年間に編纂した『雉城雑誌(ちじょうざっし)』にも、次のような記述があります。「天正10(1582)年に賀来・荏隈・笠和の三郷荘の名主が東院川から荏隈郷を抜けて笠和郷につながる大井出の開削を申し出た。大友義統は、翌年閏(うるう)正月に作事奉行を定めてこの井手の開削を始め、翌天正12年3月に完成させ、「国(くに)の井(い)」と名付けた。この井手は、東院川の取水口から荏隈郷北部の永興(りょうご)、南太平寺の丘陵沿いを東流しており、近世には「古井手」と呼ばれている。その後、江戸時代の府内藩主竹中重利が井手を延長しようとしたが実現せず、寛永11(1634)年の日根野吉明による開削で、笠和郷西端の生石(いくし)まで延伸させることができた」。
この3件の史料が言及する井手は、現在では「初瀬井路(はつせいろ)」との名称で一般に認知され、大分平野南西部地域を潤す重要な灌漑用水路として機能しています。地元では、その大規模延伸に成功して灌漑面積を大きく広げた日根野吉明期の開削が語り継がれていますが、その源流となる「荏隈郷井手」を最初に開削したのは、大友義統でした。「荏隈郷井手」は、賀来兵部少輔らが担当となって進めた、16世紀末の戦国大名による利水・灌漑事業(インフラ整備)と評することができるのです。
「荏隈郷(えのくまごう)井手の儀について、辛労(しんろう)の由肝要(かんよう)に候、しかるといえども、いまだ首尾通り申さず候、かの調(ととの)え第一の事に候の間、前々の辻、堅固に催促を遂げられ、急度(きっと)成就(じょうじゅ)候よう申し付けらるべく候」。書状は、天正16(1588)~文禄元(1592)年の間のものです。
冒頭の「荏隈郷」とは、現在の大分市荏隈地区のことで、そこで進めている「井手」の造営工事がいまだ未完成のため、義統は、「かの調え第一」「急度成就」との強い表現で、当初の予定通りに人夫を催促して完成させるよう、ふたりの家臣に督促しているのです。
では、この「荏隈郷井手」の作事は何を目的としたもので、この土木事業の全貌はどのような内容だったのでしょうか。
元禄11(1698)年に戸倉貞則が著した『豊府聞書(ほうふききがき)』の異本『豊府紀聞(きぶん)』のなかに、次の記述があります。「大友義統、東院(とい)川より荏隈郷ならびに笠和郷に至る井手を成し、国の井手と名づく」。大友義統が、大分川の支流東院川(賀来川)の取水口から荏隈・笠和両郷に至る井手を完成させ、「国の井手」と称したとあります。
また、近世府内藩の儒者阿部淡斎(たんさい)が天保年間に編纂した『雉城雑誌(ちじょうざっし)』にも、次のような記述があります。「天正10(1582)年に賀来・荏隈・笠和の三郷荘の名主が東院川から荏隈郷を抜けて笠和郷につながる大井出の開削を申し出た。大友義統は、翌年閏(うるう)正月に作事奉行を定めてこの井手の開削を始め、翌天正12年3月に完成させ、「国(くに)の井(い)」と名付けた。この井手は、東院川の取水口から荏隈郷北部の永興(りょうご)、南太平寺の丘陵沿いを東流しており、近世には「古井手」と呼ばれている。その後、江戸時代の府内藩主竹中重利が井手を延長しようとしたが実現せず、寛永11(1634)年の日根野吉明による開削で、笠和郷西端の生石(いくし)まで延伸させることができた」。
この3件の史料が言及する井手は、現在では「初瀬井路(はつせいろ)」との名称で一般に認知され、大分平野南西部地域を潤す重要な灌漑用水路として機能しています。地元では、その大規模延伸に成功して灌漑面積を大きく広げた日根野吉明期の開削が語り継がれていますが、その源流となる「荏隈郷井手」を最初に開削したのは、大友義統でした。「荏隈郷井手」は、賀来兵部少輔らが担当となって進めた、16世紀末の戦国大名による利水・灌漑事業(インフラ整備)と評することができるのです。

現在の「荏隈郷井手」(大分市賀来)


