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国際文化学部

【エピソード58】胡宗憲―倭寇退治に奔走した明朝総督―


胡宗憲―倭寇退治に奔走した明朝総督―

 胡宗憲(こそうけん)は、中国明代の16世紀半ばに活躍した「総督」です。
 正徳(せいとく)7(1512)年に徽州(きしゅう)(安徽(あんき)省黄山市)に生まれ、嘉靖(かせい)17(1538)年に科挙試験に合格して進士(しんし)。同33年には浙江の巡按御史(じゅんあんぎょし)という、皇帝名代として地方監察をする重要官職に就任します。嘉靖30年代(1550年代)は「嘉靖大倭寇」と呼ばれ、浙江・江南の両省で明政府が禁じる密貿易活動が横行した時代で、やがて両省の総督に昇格した胡宗憲の軍事・行政活動も、倭寇の取り締まりと鎮圧に主眼が置かれます。
 東京大学史料編纂所蔵『倭寇図巻』や、中国国家博物館蔵『抗倭図巻』など一連の倭寇絵巻は、この総督胡宗憲による倭寇退治の戦功図が徐々に主題を変えながら流布したものと考えられます。
 特に、『抗倭図巻』には、貝飾りを付けた冑(かぶと)と鎧(よろい)をまとって馬上で手綱(たづな)を引く胡宗憲の雄姿が、戦役視察に訪れた尚書(しょうしょ)(中央官僚)の趙文華(ちょうぶんか)と並んで描かれています。馬上並進する2人の視線の先には、伝令役の兵士が跪(ひざまず)いて指さし、その彼方で後ろ手に縛られた3名の捕虜が縄につながれて連行される構図です。3名の名は、徐洪・陳東・麻葉。国際倭寇集団の中国側頭目徐海(じょかい)の弟と一味です。
 胡宗憲の倭寇対策は、徐海や王直(おうちょく)ら中国側密貿易集団のボスを捕縛(ほばく)・懐柔(かいじゅう)するのみでなく、彼らと結託する日本側密貿易者の取り締まりにも向かいます。嘉靖34(1555)年に蒋洲(しょうしゅう)を「大明副使」という肩書きで日本に派遣し、蒋洲は当時の西日本で大きな力を有していた大友義鎮(よししげ)に面会し、山口の大内義長にも咨文(しぶん)(公文書)を送って、日本側倭寇禁圧への協力を得ています。
 その後、大友義鎮と大内義長は、朝貢(ちょうこう)を求めて明に貿易船を派遣します。その応対にあたった胡宗憲は、国家外交を司る礼部(れいぶ)への上奏で次のように主張しています。
 「豊後(大友義鎮)からの使者は勘合(通交許可証)を持たず、山口(大内義長)は「日本国王」名称ではありません。ただし、義長らは「被擄(ひりょ)人口」(倭寇に捕らわれた中国人)をこの船で送還してきました。よって、この使者を厚くもてなして日本に帰し、義鎮と義長を介して日本国王が法で倭寇を取り締まるよう伝命してはどうでしょう」(『明世宗(せいそう)実録』)。
 総督胡宗憲にとって、西日本の大友氏や大内氏ら有力大名が、明朝最大の外患である「倭寇」を平定するための重要な日本側パートナーと認識されていたことがわかる記録です。

捕虜倭寇の引見へと馬を進める胡宗憲(左から2人目)と趙文華(左端)(中国国家博物館蔵『抗倭図巻』)

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