【エピソード57】兪大猷―大友義鎮の「日本国王」授封を建議した明の名将―
兪大猷―大友義鎮の「日本国王」授封を建議した明の名将―

手前の軍船上で指揮する兪大猷(中央)と兵士たち(中国国家博物館蔵『抗倭図巻』)
国立公文書館に、『正気堂集』という漢文史料が保管されています。中国明代の武将、兪大猷(ゆだいゆう)が著した文集です。
兪大猷は、弘治(こうち)16(1503)年に福建の晋江(しんこう)(福建省泉州市)に生まれ、嘉靖(かせい)14(1535)年に武科挙(ぶかきょ)(武官登用試験)に合格して武進士(ぶしんし)に出世した人物です。彼はその後、浙江・福建・広東の中国東南沿海地域で重要武官に任じられて数々の武功を挙げ、万暦(ばんれき)7(1579)年の没後には稀代の名将と称えられることになります。
北京の中国国家博物館にある『抗倭図巻(こうわずかん)』は、嘉靖年間に中国沿岸海域で密貿易を行う海賊集団(倭寇)の取り締まりと撃退を描いた絵巻物ですが、その中に兪大猷の姿が描かれています。8名の兵士を率いて軍船の中央に立ち、腰に弓を提げ、左手に船旗を持ち、右手で前方の倭寇への進撃を指示する勇ましい場面です。その命に従って、兵士たちは進軍の太鼓を鳴らし、船の舵(かじ)を取り、弓を射ています。兵を束ねる「総兵官」の地位にあった彼の優秀な統率力を示す絵で、舳先(へさき)には大砲と弾丸3つも見えます。
東アジアの国際的海賊集団として明政府を脅かしていた倭寇と実際に戦った経験のある兪大猷には、その沈静化へのある策略案がありました。『正気堂集』のなかに、明政府の総督に宛てた上申が記録されています。
「日本には10余りの島にそれぞれ太守(たいしゅ)がいます。近年では、「山口島太守源議長」(山口の大名大内義長)と「豊後州太守源議鎮」(豊後の大名大友義鎮(よししげ))の兄弟の影響力が強く、兄義鎮は「州六」(6カ国)、弟義長は「州十二」(12カ国)を支配しています。先年、倭寇取り締まりの使者を派遣したところ、義鎮が「宣諭明文(せんゆめいぶん)」(密貿易禁止の命令文)を各島に伝えて取り締まったことで、今年の倭寇が減少しました。現在、その義鎮からの使者徳陽(とくよう)ら43人が浙江の舟山島に来て、貿易の許可を求めています。まずは沖合の島に碇泊・待機させ、皇帝の命が下れば「金帛(きんぱく)」(金と絹)を与えて義鎮の功労を賞してはいかがでしょう。さらに、今年の揚州での倭寇を捕らえて処罰し、この先2、3年後に倭寇を殲滅できれば、義鎮に「日本国王」印章と勘合を与え、朝貢を許してはいかがでしょうか」
自らの戦闘経験で日本の内情を察知した兪大猷は、明政府を悩ます倭寇の鎮圧に、当時西日本一の勢力を有する大友義鎮の力が欠かせないと考え、義鎮を足利将軍同様の「日本国王」に封じる案を上申したのです。
兪大猷は、弘治(こうち)16(1503)年に福建の晋江(しんこう)(福建省泉州市)に生まれ、嘉靖(かせい)14(1535)年に武科挙(ぶかきょ)(武官登用試験)に合格して武進士(ぶしんし)に出世した人物です。彼はその後、浙江・福建・広東の中国東南沿海地域で重要武官に任じられて数々の武功を挙げ、万暦(ばんれき)7(1579)年の没後には稀代の名将と称えられることになります。
北京の中国国家博物館にある『抗倭図巻(こうわずかん)』は、嘉靖年間に中国沿岸海域で密貿易を行う海賊集団(倭寇)の取り締まりと撃退を描いた絵巻物ですが、その中に兪大猷の姿が描かれています。8名の兵士を率いて軍船の中央に立ち、腰に弓を提げ、左手に船旗を持ち、右手で前方の倭寇への進撃を指示する勇ましい場面です。その命に従って、兵士たちは進軍の太鼓を鳴らし、船の舵(かじ)を取り、弓を射ています。兵を束ねる「総兵官」の地位にあった彼の優秀な統率力を示す絵で、舳先(へさき)には大砲と弾丸3つも見えます。
東アジアの国際的海賊集団として明政府を脅かしていた倭寇と実際に戦った経験のある兪大猷には、その沈静化へのある策略案がありました。『正気堂集』のなかに、明政府の総督に宛てた上申が記録されています。
「日本には10余りの島にそれぞれ太守(たいしゅ)がいます。近年では、「山口島太守源議長」(山口の大名大内義長)と「豊後州太守源議鎮」(豊後の大名大友義鎮(よししげ))の兄弟の影響力が強く、兄義鎮は「州六」(6カ国)、弟義長は「州十二」(12カ国)を支配しています。先年、倭寇取り締まりの使者を派遣したところ、義鎮が「宣諭明文(せんゆめいぶん)」(密貿易禁止の命令文)を各島に伝えて取り締まったことで、今年の倭寇が減少しました。現在、その義鎮からの使者徳陽(とくよう)ら43人が浙江の舟山島に来て、貿易の許可を求めています。まずは沖合の島に碇泊・待機させ、皇帝の命が下れば「金帛(きんぱく)」(金と絹)を与えて義鎮の功労を賞してはいかがでしょう。さらに、今年の揚州での倭寇を捕らえて処罰し、この先2、3年後に倭寇を殲滅できれば、義鎮に「日本国王」印章と勘合を与え、朝貢を許してはいかがでしょうか」
自らの戦闘経験で日本の内情を察知した兪大猷は、明政府を悩ます倭寇の鎮圧に、当時西日本一の勢力を有する大友義鎮の力が欠かせないと考え、義鎮を足利将軍同様の「日本国王」に封じる案を上申したのです。


