【エピソード56】月山―伊勢参詣した府内の唐人―
月山―伊勢参詣した府内の唐人―

伊勢御師福島御塩焼大夫邸の門(三重県伊勢市)
天正16~19(1588~91)年の九州から伊勢参詣した人物の名前を列記した「天正十六年参宮帳」。その筆録者である福島御塩焼大夫(みさきだゆう)家の江戸時代の門が、現在も神宮文庫(三重県伊勢市)の表門=通称「黒門」として移築保存されています。堂々とした邸門で、多くの参詣者を集め世話をした神宮御師(おんし)の威勢を感じるものです。
この「参宮帳」の参詣者リストのなかに、「月山」「けんさん」「ふくまん」「ゑんはい」などの奇妙な名前の人物がいます。彼らはいずれも豊後府内(大分市)の唐人町からの参拝者で、戦国時代の在日中国人と言えます。このうちの「けんさん(見山)」は、元亀2(1571)年の臼杵(大分県臼杵市)で、まだ若かった狩野永徳に中国画の技法を伝授した樹岩(じゅがん)見山(けんざん)であることを以前に紹介しました。
一方、「月山」について、これも「見山」の読み違えではないかと思い、東京大学史料編纂所の謄写(とうしゃ)本(書き写し)で確認しましたが、『大分県史料』翻刻文通り「月山」という文字に間違いはなく、振られているルビも「けつさん」と読めました。「月山(げっさん)」は、「けんさん」(樹岩見山)とは別の渡来中国人と判断できます。
府内で彼らが居住していた唐人町とその周辺の考古学調査では、ウシやブタの骨、骨牌(こっぱい)(中国で流行っていた遊戯具)、鎹(かすがい)接(つ)ぎの痕跡のある青花碗など、他の町とは異なる中国特有の遺物が出土しています。
当時の日本人にウシやブタを食する習慣はなく、しかも分析では家畜として飼われていたものとされ、唐人町在住の中国人が食べた残骸と推測されます。また、割れた陶磁器を鎹(コの字形の釘)でつなぐのも中国式修理方法で、日本では接着剤として漆を使う「漆接ぎ」が一般的です。しかも、府内で出土したものは高級陶磁器ではない日常雑器で、在住中国人が来日前に愛用していた碗を中国で補修し、それを日本に持ち込んで使っていたと考えられます。
その遺物を見て、「このブタを月山さんが食べたのか」「ゑんはいさんは割れても修理してこのお碗を使ってたんだなぁ」と想像をふくらませるのは、私だけではないでしょう。
「月山」ら戦国時代の九州に渡来した中国人は、唐人町で中国式の衣食住生活をしていました。しかしながら、彼らは決してマイノリティーとして孤立したのではなく、日本人と連れだって伊勢参拝し、また日本人が憧憬(しょうけい)する中国画(水墨画)の技法を教えたりと、異国での文化交流を楽しんでいるように見えます。
この「参宮帳」の参詣者リストのなかに、「月山」「けんさん」「ふくまん」「ゑんはい」などの奇妙な名前の人物がいます。彼らはいずれも豊後府内(大分市)の唐人町からの参拝者で、戦国時代の在日中国人と言えます。このうちの「けんさん(見山)」は、元亀2(1571)年の臼杵(大分県臼杵市)で、まだ若かった狩野永徳に中国画の技法を伝授した樹岩(じゅがん)見山(けんざん)であることを以前に紹介しました。
一方、「月山」について、これも「見山」の読み違えではないかと思い、東京大学史料編纂所の謄写(とうしゃ)本(書き写し)で確認しましたが、『大分県史料』翻刻文通り「月山」という文字に間違いはなく、振られているルビも「けつさん」と読めました。「月山(げっさん)」は、「けんさん」(樹岩見山)とは別の渡来中国人と判断できます。
府内で彼らが居住していた唐人町とその周辺の考古学調査では、ウシやブタの骨、骨牌(こっぱい)(中国で流行っていた遊戯具)、鎹(かすがい)接(つ)ぎの痕跡のある青花碗など、他の町とは異なる中国特有の遺物が出土しています。
当時の日本人にウシやブタを食する習慣はなく、しかも分析では家畜として飼われていたものとされ、唐人町在住の中国人が食べた残骸と推測されます。また、割れた陶磁器を鎹(コの字形の釘)でつなぐのも中国式修理方法で、日本では接着剤として漆を使う「漆接ぎ」が一般的です。しかも、府内で出土したものは高級陶磁器ではない日常雑器で、在住中国人が来日前に愛用していた碗を中国で補修し、それを日本に持ち込んで使っていたと考えられます。
その遺物を見て、「このブタを月山さんが食べたのか」「ゑんはいさんは割れても修理してこのお碗を使ってたんだなぁ」と想像をふくらませるのは、私だけではないでしょう。
「月山」ら戦国時代の九州に渡来した中国人は、唐人町で中国式の衣食住生活をしていました。しかしながら、彼らは決してマイノリティーとして孤立したのではなく、日本人と連れだって伊勢参拝し、また日本人が憧憬(しょうけい)する中国画(水墨画)の技法を教えたりと、異国での文化交流を楽しんでいるように見えます。


