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国際文化学部

【エピソード55】ゑんはい―日本人と混住した唐人―


ゑんはい―日本人と混住した唐人―

 「天正十六年参宮帳」と名付けられたおもしろい古文書があります。天正16~19(1588~91)年の豊後や肥後、日向から伊勢参詣した人物の名前を、神宮の御師(おんし)(参拝者を案内し宿泊などの世話をする、現代でいうツアーコンダクター)の福島御塩焼大夫(みさきだゆう)が記録した帳簿です。
 この古文書は、昭和39(1964)年刊の『大分県史料』第25巻に活字化されていますが、それによると、例えば天正17(1589)年3月13日分の翻刻は、「豊後符中衆六人たう人まち ゑんはい同与三郎殿 けんさん同新四郎殿 ゐなり町石井新次郎殿」となっています。
 約440年前の3月13日に、豊後符中(府内、現大分市)の町衆6人がお伊勢参りをしたことがわかるのです。ところが、『大分県史料』の翻刻文では、6人のうち「ゑんはい同与三郎」「けんさん同新四郎」「石井新次郎」の3人の名前しか読み取れません。これはおかしいと思い、東京大学史料編纂所にある謄写(とうしゃ)本(古文書の書き写し)で確認したところ、原文では人名間に区切りがないことがわかりました。
 そこでこの史料は、「たう人まち(唐人町)」の「ゑんはい 同与三郎殿 けんさん 同新四郎殿」と、「ゐなり町(稲荷町)」の「石井新次郎殿」と区切って解釈すべきと判断できます。同史料の全体的な記述特徴として、唐人は呼び捨て、日本人は「殿」を付す傾向があります。与三郎と新四郎の前の「同」は「たう人まち」を指して、「日本人だけど唐人町に住んでいる与三郎と新四郎」という意味で「同」を付したと理解できます。ただ、これでも5人しかいなく1人足りません。
 そこで今度は、この史料全体で「○○町◎人」の表記と人名数が一致しているかを確認したところ、確かに大半は一致しているのですが、この事例の他に2例、人数が合わない部分があることがわかりました。天正19(1591)年4月6日の参拝者「符中市之町しゅ(衆)五人」とあるのに記載人名は4人など、いずれも記載人名の方が少ないという共通点があります。
 恐らく、実際に府内の町衆6人が伊勢詣でしたものの、うち1人は従者か子どもかで名前を書くに足らない人物だったため御師が記名を省略し、「ゑんはい」を筆頭とする主だった人物のみ記名したと考えられます。
 「ゑんはい」や「けんさん(見山」」という九州在住の唐人(中国人)が伊勢参詣していたこと自体おもしろいうえに、その唐人町に日本人も混住していたこともわかるのが、この参宮帳の特徴です。

唐人「ゑんはい」(後ろから2行目)らの名前がわかる「天正十六年参宮帳」

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