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国際文化学部

【エピソード52】引地の君―久留米キリスト教界の先駆者―


引地の君―久留米キリスト教界の先駆者―

 福岡県久留米市の六ツ門(むつもん)町にあるカトリック久留米教会。九州最大の筑後川に面したこの都市久留米に、キリスト教を根付かせた女性について紹介しましょう。
 天正14(1586)年、豊臣秀吉の九州出兵軍として出陣した小早川隆景は、戦功によって筑前一国と筑後・肥前内の二郡を宛行(あてが)われます。兄の隆景に従軍した毛利元就(もとなり)の九男毛利秀包(ひでかね)にも、筑後の三郡が宛行われ、翌年7月、21歳の秀包は久留米に入りました。
 秀包は、久留米城を改修整備して本拠とし、そこに、豊後の大友義鎮(よししげ)(宗麟)の七女である桂姫を迎えます。「引地の君」と呼ばれたこの妻は、もともと、大友氏から豊臣氏への人質として毛利家に預けられていたといいます。引地の入嫁は、永禄年間の激しい武力衝突の経緯を有する大友・毛利両家の融和を期したものといえるでしょう。
 キリスト教文化開花の中心地豊後の出身の引地は、熱心なキリスト教信者でした。元亀元(1570)年に生まれ、豊後を訪れていたイエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーニの影響や、乳母カタリナの信仰援助を受けて、16歳の天正13(1585)年に入信しました。洗礼名はマセンシア。毛利秀包に嫁いだのは、その2年後のことです。
 マセンシアの信仰の篤さを物語るいくつかのエピソードがあります。天正16年には久留米城にスペイン人宣教師のペドロ・ラモンを招きます。慶長5(1600)年に関ヶ原の戦いが始まると、マセンシアと子どもらは、敵方の黒田孝高(よしたか)や鍋島直茂らの軍勢に攻め込まれ、敗戦後は黒田家の人質となります。特に、夫秀包の没後には、毛利家の当主輝元から棄教を強く求められたが、従うことはなかったといいます。逆に、宣教師の来訪を容認するよう輝元に進言したとされ、輝元はマセンシアの信仰を黙認せざるを得なかったようです。その後、マセンシアは慶安元(1648)年に79歳で没します。墓は、毛利家の保護を受けた神上寺(じんじょうじ)(下関市豊田町)に祀られています。
 夫の秀包がキリスト教に入信した経緯とその時期は定かではありませんが、前述のような妻引地(マセンシア)の篤い信仰心に強い影響を受けたであろうことは間違いないでしょう。秀包の洗礼名はシモン(シメオン)。
 そして、秀包・引地夫妻の嫡男として家督を継いだ毛利元鎮(もとしげ)も、天正17年にイエズス会宣教師ルイス・フロイスから受洗しています。その洗礼名フランシスコは、母方の祖父大友義鎮(ドン・フランシスコ)にあやかったものでしょう。

カトリック久留米教会(久留米市)

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