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国際文化学部

【エピソード3】仲屋顕通―実在した九州一の大豪商―


仲屋顕通―実在した九州一の大豪商―

「仲屋次郎左衛門入道顕通」の署名と黒印(大徳寺黄梅院文書)

 16世紀の豊後府内(大分市)に、九州一の大豪商がいました。
 豪商というと、江戸時代初めの17世紀に東南アジアとの貿易を手がけて莫大な利益をあげた、長崎の末次平蔵、京都の角倉(すみのくら)了以(りょうい)・茶屋四郎次郎が有名です。しかしながら、近年の研究で明らかになった豊後府内の豪商は、その半世紀以上前に活躍しており、いわば日本史上最も早い時期の豪商の一人なのです。
 その人物の名は、仲屋(なかや)次郎左衛門、入道名は顕通(けんつう)です。
 実は、これまで仲屋顕通の実在を示す確実な史料は見つかっていませんでした。そのため、顕通については伝説上の豪商のように語られ、また、その名前自体が「中屋乾通」や「仲屋玄通」などと誤った漢字で表記されていました。
 今回発見された史料は、弘治2(1556)年の肥後国(熊本県)の年貢算用状(領主に納めるべき年貢を計算した帳簿)で、その差出人の欄に本人が「仲屋次郎左衛門入道顕通」と署名・捺印しています。
 この新発見の年貢算用状は、豊後豪商仲屋顕通の経済活動の実態を如実に示してくれます。
 彼は、肥後の荘園から京都の領主に納める年貢の3カ年間の請け負い契約を結びます。熊本平野南部の現地で集められた年貢を、顕通は緑川の水運を利用して河口の河尻(かわしり、熊本市南区)まで河川輸送し、その「川荷駄賃(かわにだちん)」(運送料)として年貢高の5割の利益を得ています(10万円分の荷物を運んで5万円の送料を差し引いたわけで、現代ならばかなりの悪徳運送業者ですね)。
 次に、顕通は、毎年の年貢米を銭に交換して京都の領主に納めていますが、その米と銭の交換比率はその年の「和市(わし)」(相場値)で計算しているものの、実際に3カ年の年貢を銭納した月は、初年度は9月、2年目は12月、3年目は翌年の2月と、時期が一定していません。顕通は、米と銭の交換を自らに有利な時期に行ったのです。そのタイミングを見計らった交換駆け引きは、現代の為替トレーダーを想起させます。
 顕通は、もともと豊後府内の貧しい酒売り商人でしたが、こうした物流収益やレート操作益を通して次第に富を蓄えていきます。やがて、自らが関わった大友氏の遣明船の舵(かじ)板を使って、府内の善巧寺(ぜんぎょうじ)というお寺に扁額(へんがく)を寄進するほどの豪商に成長します。
 16世紀半ば以降、日本では銀の流通が増大し、大友氏は府内や臼杵などの主要都市で銀を計量する際の秤(はかり)と分銅(ふんどう)の規格に関する権益を顕通に与えます。大友氏の後ろだてを得た顕通は、府内の屋敷で大名権力公定の分銅を製作・発行し、以後、海外貿易を含めた銀取り引きを統括する大豪商に成長していったのです。
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