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大学紹介

卒業生が語る:鵜飼 昌治


鵜飼 昌治

一期生の仲間達と作り上げた、歴史の1ページ目。
その経験が、未来の自分の「成功の鍵」でした。


株式会社ホンダ名古屋 代表取締役社長 鵜飼 昌治


プロフィール

名古屋学院中学校・高等学校を卒業後、1964年の名古屋学院大学開学の年に、経済学部経済学科一期生として入学。1968年に卒業後、名古屋日産モーター株式会社に就職。1969年に父が経営する「有限会社ウカイ自動車」に入社。1985年に取締役社長に就任し「ホンダプリモ守山」としてプリモ店をスタートさせる。同年、店舗隣にショールームをオープン。1991年に「ホンダプリモ守山小幡店」をオープンし、三店舗体制に。2006年、屋号を「Honda Cars 名古屋北」に変更し、現在に至る。

大幸学舎で過ごした、名学一期生

私は、名古屋学院大学の一期生として、中学校、高校から、そのままエスカレーターで大学に入学しました。校舎は、現在の瀬戸キャンパスができる前の「大幸学舎」。私はそこで既に中・高の6年間を過ごしていたので、同じ顔ぶれの同級生も多く、「大学生になった!」というより「高校4年生」みたいな気持ちで入学しました。入学した年は、1964年。経済学部経済学科が、唯一の学部・学科でした。ちなみに、瀬戸の学舎へ全学移転したのは、それから4年後の1968年。私が大学3年の時に、経済学部に商学科ができて、卒業した年の春に、瀬戸学舎に全て移りました。ですので、大学4年間をずっと大幸学舎で過ごしたのは、一期生のメンバーだけということになりますね。大幸学舎は、敷地内にチャペルがあって、学舎の入り口のあたりにポプラ並木があったことを憶えています。綺麗な並木道は、深く印象に残っている風景です。
最近になって、初めて白鳥学舎へ行きましたが、近代的なキャンパスにとても驚きました。女子学生もたくさんいて、私の大学時代とはやはり違うなあと感じました。私の学年は180人程と少なく、ほとんどが男子学生。女子学生は確か3人程しかいませんでした。高校からの顔見知りも多かったので、とてもアットホームな雰囲気でしたよ。きっと今だと大学内ですれ違っても、学部が違うとわからない人もたくさんいると思いますが、当時はみんな顔見知りみたいな感じで、和気あいあいとした雰囲気でした。

自動車部と軽音楽部、二足の草鞋!?

鵜飼 昌治

大学時代の一番の思い出は、クラブ活動です。と言っても自分達が一期生ですから、入学時にクラブは何もありません。そこでまず私は、仲間を集めて「自動車部」を立ち上げ、チャペルの横に自動車部専用のプレハブを建ててもらいました。大学1年の時は自動車部で鈴鹿サーキットに出かけて、コースを走行するライダーの順位を示す「リーダーボード」のアルバイトをしていました。ところが大学2年の時、自動車部で活動をしていたら、学舎からギターの音色がふと聞こえてきたんです。その音に血が騒いだ私は、すっかり興味が湧いてしまいましてね。部屋を飛び出して音が鳴る方へ向かったら、軽音楽部が活動をしていたんです。楽器は全くの初心者ながらも「ギターが弾けるようになりたい!」と思い、今度は軽音楽部に入部しました。自動車部の仕切りは後輩に任せて、自分はバンド練習に明け暮れる日々でしたね。4人編成の「ザ・ダイアモンズ」というバンドで、私はギター担当。時には、ライブ会場にギターやアンプを運ぶために、自動車部の車を借りることもありました。とにかくバンド練習が楽しくて仕方がなかった大学時代でした。つい先日も、軽音楽部のOB・OG会がありました。40代~50代のメンバーが多いですが、歴代の軽音楽部員との交流は今でもあります。音楽という共通点で繋がっている、大切な仲間です。

前例がなければ、自分たちで作る!

あと、大学時代で思い出に残っていることと言えば「ダンスパーティー」です。当時は名古屋市内に大きなホールがいくつかあり、そこを貸し切ってのパーティーが、頻繁に開催されていました。いろいろな大学から学生が集まってくる場で、音楽を聞きながら踊ったり、話をしたりするのが、ただ楽しくて仕方がなかったという記憶があります。そこに、軽音楽部で演奏をしに行く機会も多く、パーティー中に3ステージ程こなしていたこともありました。ほかの大学から女子学生もたくさん来ていたので、「一緒に踊ろう」なんて声をかけたりして。私たちにとっては、大切な出会いの場でもありましたね。
大学の文化祭は、確か1年生の時はなく、2年生の時に始まったような記憶をしています。一期生ですから、大学の歴史も、そういったイベントの前例もありません。「ないなら自分たちで作るほかない」と、当時はいろんな人が先頭に立って、歴史の1ページ目を作っていたんだと思います。私にとってそれは、自動車部の立ち上げであったり、軽音楽部の活動であったり…。「前例がないものは、自分たちで作れば良い!」という考えと、このパワーと行動力は、大学時代に培われたのでしょうか。少なからず、その後の人生に役に立ったのかもしれませんね。

大学時代の行動力が、成功の鍵に

鵜飼 昌治

現在は「Honda Cars 名古屋北」として、守山自衛隊前店、大森インター店、ホンダウイングウカイ(2輪店)の三店舗を経営しています。
大学卒業後は別会社で数年働いて、その後に父が経営する会社に入社しました。その頃は二輪がメインでしたが、実は私は「ホンダの四輪車を売りたい」と密かに思っていました。きっかけは、ホンダの創業者である本田宗一郎さんや、宗一郎さんの名参謀と言われた藤沢武夫さんにお会いする機会があったこと。彼らの話を聞いて「これからはきっと、ホンダの時代が来る!」と強く思っていました。
1985年に「ホンダプリモ守山」と、その隣にショールームをオープンしたタイミングで、父が私へ社長の座を譲ってくれました。その当時「車屋がショールームを置く」という概念はまだあまりなく、同業者は土日休みがほとんどだったのですが、我々は「お客様のために」と、ショールームを開き、同時に日曜営業にも挑戦しました。それが功を奏し、たくさんのお客さまに足を運んでいただけるようになりました。それ以外にも、常識にとらわれず、革新的な方法で、仲間とともに営業戦略を練り、新規顧客を増やしました。
今思い返すと、大学一期生の時に、仲間達と歴史の1ページ目を作った時の感覚によく似ている気がします。初めてのことで、どうやっていいかわからないときは、仲間と相談して、最善の方法を探って実行してみるーー。これこそが、成功の鍵だったのではと思っています。

地域とともに、お客様とともに

会社を経営していく上で、大切にしていることは、「地域との関わり合い」と「お客様との絆」です。
地域貢献の一環として、歩道橋に社名を入れ、その周辺を月1回、全社員で清掃しています。また、出勤日に毎朝行う会社周辺の清掃も欠かさず行っています。私が会社の近くで生まれ育っていることもあり、地域に貢献したいという思いは強いですね。
昔は、お客様の数もそんなに多くなかったので、営業マンが自宅を訪問していた時期もありましたが、年々新規のお客様も増え、なかなか全てのお宅に出向けないので、代わりに店舗へ来て楽しんでいただけるようなことはないかと考えました。現在は年4回、季節ごとに店を挙げて「感謝祭」を開催し、お客様に楽しんでいただけるような企画を、社員自ら考えています。
私たちの仕事は、ただ車を売るだけではありません。地域貢献を行い、深く尊い人間関係を築いていくことで、信頼を置いていただき、2台目、3台目も買っていただけるような存在になることが大切だと思っています。昔と今とでは、車を取り巻く環境はだいぶ変わりましたが、厚い信頼関係のもとで商売をするという根本的な部分は変わっていないと思っています。いつもお客様の立場に立ち、最高のおもてなしで大切なお客様をお迎えできるよう、我々も、まだまだ努力が必要です。

50年という重みを、若者に託して

鵜飼 昌治

開学50周年の記念ということなので、大学に入学した時に仲間と一緒に作った「カレッジリング」を持ってきました。アメリカでは一般的だったみたいですが、俗に言う記念のリングですね。当時、ファッションにこだわる若者はみんな知っていましたし、その頃はこういうものを作ることがステータスのようなものだったのでしょうか。スポーツで優勝した時に作るチャンピオンリングのようなもので、私たちは入学の記念に、入学年と大学名を入れて、それぞれ自分の誕生石を埋め込みました。みんながまだ持っているかはわかりませんが、私はずっと大切に50年間持っていました。名古屋学院大学が50周年ということは、一期生の僕が入学した年から50年も経つということですよね。時が経つのは早いものです。
若い頃は、「名古屋学院大学を卒業した」と言うと、とても羨ましがられたのを覚えています。また、今でも名古屋学院大学出身の後輩に会うととても嬉しくなるのは、私だけではないはずです。50年もの歴史を重ねてきたこの大学の卒業生の中には、社会で活躍している先輩方がたくさんいます。在学生のみなさんは、自分に誇りを持ち、これから先の人生、果敢に挑戦していってほしいですね。苦難を乗り越えた人は必ず強くなると思います。楽をする道を選ぶのは簡単ですが、若いパワーを、苦しみや困難を乗り越える力にして、強く、たくましい人になってほしいと願っています。
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