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大学紹介

卒業生が語る:柴田哲冶


柴田哲冶

名院大に進んだこと。水泳を続けたこと。
この選択が、人生に幸運をもたらしてくれました。


三菱重工業株式会社技術アドバイザ 柴田哲冶


プロフィール
名古屋中学、名古屋高校を経て、1968年、名古屋学院大学経済学部経済学科に入学。卒業後、海上自衛隊に入隊、艦艇職域に進み、イージス艦艦長、司令をはじめ、研究開発・教育訓練部門において枢要なポストを歴任。2006年三菱重工業株式会社に入社。防衛・宇宙事業部門の顧問・技術アドバイザーとして勤務。

新しい校舎に、4年間の希望を映して

私が入学した1968年は、大幸学舎から瀬戸学舎に移転した年でした。当時、全く板につかないスーツ姿で入学式に臨んだ私でしたが、正面のプロムナードから眺める近代的な学舎の佇まいにとても感動しました。瀬戸の自然豊かな中に、近代的な建物がマッチして、「ここでこれからの4年間を過ごすんだ」と意気込んだことを覚えています。また、思い思いの“アイビー”スタイルに身を包み、ブックバンドで束ねた本を小脇に、キャンパス内を行き来する先輩たちの姿にも憧れました。水泳一筋、丸坊主に運動靴で育った私も、「この光景に早く溶け込みたい!」という一心でしたね。髪型から服装、持ち物までガラリと変わったのがこの頃。親にもだいぶ散財させました(笑)。
あとは、当時、体育館の南側に自動車部の練習コースがあったんですよね。その辺りから池越しに眺める六合館や啓明館の佇まいが好きでした。また反対に、六合館の最上階からは、瀬戸の街並み越し、はるか向こうに名古屋の市街地を眺めることができました。特に夜景が印象的でしたね。

あの時、名学進学を選んで

名古屋中学・高校から引き続き、大学でも水泳部に所属しました。種目は高飛込です。小学生から水泳一筋で、もとは平泳ぎの選手でしたが、高校の時に他校から優秀な選手が入ってきたこともあって、「マネージャーにならないか」という話がありました。退部も考えながら練習をさぼって、飛込プールのある市営プールに遊びに行った時、初対面の飛込コーチから「一日練習生をやってみないか」と声を掛けられたんです。言われるままに生まれて初めて飛び込みました、高所恐怖症なのに(笑)。そうしたら、帰りがけにコーチから「飛込でオリンピック目指さないか」と言われたんです。平泳ぎでは全中やインターハイも夢のまた夢でしたから、オリンピックなどとは思いもしませんでしたが、お調子者の私は悪い気はせず、二つ返事で高飛込に転向しました。
高3の時、東京の大学からスカウトもありましたが、両親のたっての希望もあり、断念しました。今考えると、東京に行っていたら水泳三昧の毎日で、勉強なんてさせてもらえなかったと思います。きっと今の私はなかったと思いますね。名学に入ったこと、そこで4年間将来を見据えつつ、思いのままに過ごせたこと。多くの幸運な出会いが、今日の私にすべて繋がってきたと思います。

名学の歴史を塗り替えた!?

柴田哲冶

私が入学した年に、体育館の隣に50mプールが完成しました。この時期の水泳部は総勢15~6名で、全盛時代と呼ぶに相応しい成績を上げました。競泳は中部学生選手権で団体第2位に、個人種目では優勝者も輩出していました。また、女子選手には日本学生選手権や国体で表彰台に上った選手もいました。
当時の競泳プールとしては非常に珍しく、飛込用プールも併設されていました。後から聞いた話によりますと、私が入学してくるからということで、完成間近のプールの一画をリフォームし、莫大なお金をかけて飛込施設を増設したとのことでした。
こうした周りの方々の期待や支援により、在学中に日本選手権や学生選手権で表彰台近くまで行く成績を収めることができました。オリンピックとまでは行きませんでしたが、国際大会の候補にノミネートされたこともありました。また、正式競技ではありませんが、アクロバティックな飛込を披露する「コミックダイビング」では日本一になったこともあります。私はどちらかというとこちらの方が性に合っていたようですね(笑)。
現在、恩返しの意味を込めて、子供たちにダイビングを教えています。この中から、近い将来名学に進み、表彰台に上ってくれる子が出てくることを願っています。

講義で学んだことを最大限に生かして

柴田 哲冶

当時は、今大学で学んでいることが、将来どのように役立つのかなどということは、考えもしませんでした。結果的には、一般教養科目では宗教学、統計学が、外国語では英語とスペイン語が、さらに専門教育科目では各史論や経営学関連の科目が、後の仕事にいろんな形で役立ってきたように思います。中でも、英語の佐久間先生とスペイン語の瀬田先生。海外の文化や歴史、芸術などをうまく結び付けて、興味深く講義していただいたことが強く印象に残っています。事実、海上自衛隊で英語圏やスペイン語圏を訪問した折に、言葉が多少なりとも使えたことや、その国の文化や歴史について些かなりとも知識を持ち合わせていたことで功を奏したことがありました。
佐久間先生とは、先生が105歳でお亡くなりになるまで、年賀状のやり取りをさせていただいていました。先生方の楽しい講義のテクニックは、私が海上自衛隊で学校教官を務めた時に、そっくりそのまま使わせていただいたものもあります。
諸外国との交流上、語学力や歴史・文化に関わる知識が、一つの教養として、国際的に通用する“信頼性”のバロメーターだと実感してきました。学生の皆さんにもそんな認識や感覚を持ってもらいたいですね。

海上自衛隊で培った精神と現在

柴田 哲冶

卒業後、旧海軍に奉職した父の影響もあり、海上自衛隊に入隊しました。本学から防衛省関連の仕事へ進むというのは、当時としては異例のことでした。父の背中を見て育ち、海のロマンに憧れ、父の生き様が素直に恰好いいなと思え、高校生の時からこの道に進むことを何となく考えはじめていたように思います。
海上自衛隊では艦艇乗組を15年、陸上配置を19年のトータル34年間勤めてきました。この間、イージス艦の艦長を含め7つもの指揮官配置を経験する栄に浴することもできました。退職後の2006年、三菱重工業株式会社に顧問として入社し、現在は「防衛・宇宙ドメイン 誘導・推進事業部」において「電子システム技術部」の技術アドバイザーとして、元ユーザーの観点からSE(Systems Engineer)、SI(System Integrator)等に対する助言を行う仕事をしています。これから作ろうとしているものが、実際に現場でどのように使われるのか、また、国防の本質や戦闘の原理・原則などを、若い技師達に正しく伝え、真に有為なシステム作りに結び付けていくという取り組みはとても遣り甲斐のある仕事です。今、ものづくりを本当に楽しんでいます。

キャンパス内は、ヒントの宝庫

在学生の皆さんには、「大学が何をしてくれるか、何を与えてくれるか」ではなく、自分がこの4年間で何を学び、何をしていきたいかを追い求め、就学の目的や将来の目標を少しでも早く見つけ、充実した4年間を過ごしてほしいですね。俗に「やる気がしない」というのは、きっとそれは自分がやりたいことや求めていることではないから。この4年間の使い道が、その先の人生のカギだと思います。そのヒントは、意外と身近にあります。みなさんの周りには、素晴らしい教授方や頼りになる先輩たちがいます。困難や悩み事にぶつかった時、躊躇することなく上司や先輩たちに相談してください。はるかに豊富な実体験を持った面々ですから、きっと的を得た解決の糸口がいただけるはずです。ヒントが見つかった時、その先がパッと明るくなって、やる気が起き、迷わず自分の進むべき道を歩んでいける、そんな自信が生まれます。名古屋学院大学という希望と可能性に満ちた素晴らしい環境の中で、学業でもスポーツでも何でもいいですから、自分の得意なことや好きなことを何か一つ見つけ、“技”を磨き、人に自慢できる実力をつけてもらいたいです。将来それがきっと大きな心の支えになります。そんな有意義なキャンパスライフを過ごしてほしいですね。
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