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大学紹介

卒業生が語る:曽我部 直樹


曽我部 直樹

僕のプロ野球人生にも関わる大きな転機は、
大学の野球部時代の、監督の一言でした。


オリックス・バファローズ 球団本部管理部査定スコアラーグループ 曽我部直樹


プロフィール
大垣日本大学高等学校を経て、1990年、名古屋学院大学経済学部商学科入学。1994年の卒業後、サンジルシ醸造を経て、1995年のドラフト4位で阪神タイガースに入団し、8年在籍する。
2004年に千葉ロッテマリーンズに移籍。現役引退後、千葉ロッテマリーンズに球団職員として在籍。そして2011年に岡田彰布前監督の誘いでオリックス・バファローズに入団、球団本部管理部運営グループ(監督付)に配属。2013年から査定スコアラーグループで、先乗りスコアラーとして活躍する。岐阜県岐阜市出身。

今までとは違う、野球のかたち

今、僕がこうして居られるのは、岡田彰布前監督のおかげです。岡田前監督には阪神タイガース時代に大変お世話になりました。岡田さんがオリックスの監督になられた2010年は、僕がロッテを退団した年で、監督から「監督付(監督のマネージャー)するか?」って呼んでいただいたんです。それから2年間、監督のそばで働かせて頂いた後も、こうしてチームに残して頂き現在は「スコアラー」として働かせて頂いております。スコアラーとは、相手のデータ分析をして、戦うための参考書を作るような仕事。スコアラーの中でも僕は「先乗りスコアラー」と呼ばれるポジションで、今戦っている相手から二つ先の対戦相手のデータを取ってくるんです。対戦前6試合分の相手チームの状態を、試合直前に報告し、チーム付のスコアラーと共に作戦を練って、その試合に挑みます。一番の醍醐味はやはり、チームの勝利。僕らの報告は、ほんのひとかけらでしかないけれど、例えば試合中にそれが選手の頭によぎったことで良いプレーが出たり、さらにそこから勝利に結びつくと、やはり嬉しいですね。少し異なる視点で、今までとは違う野球をしている、そんな感覚です。現役から離れて視界が広くなると、周囲の人のありがたみもじわじわと伝わってきます。勝利という目標に向かって、本当にたくさんの人が関わっているんだと、今改めて実感しています。

夢だった「プロ野球選手」に

曽我部 直樹

大学卒業後、社会人野球を2年経験してから、ドラフト指名で阪神タイガースに入団しました。高校卒業後の入団と違って、この歳での入団となると即戦力とみなされるということもあり、プロ野球界に入ってすぐは、そのレベルの違いに大きな劣等感を感じていましたし、毎日が挫折の連続でした。でも、その反面、「僕の肩は誰にも負けない!」という自信もありました。とにかくもっとうまくなりたい、戦力になりたい、という一心で、ひたすら練習を重ねていました。その時感じたのは、大切なのは、「練習」と「工夫」だということ。プロ野球には、平均点の選手はいらないんです。僕よりもうまい選手はアマチュア界にたくさんいるけれど、じゃあ自分はその中でどんなところをアピールしていくか。周りにどこを見てもらい、評価してもらうか。これが大事なんですよね。そういう点では、僕には、周囲が「強肩」と讃えてくれたこの肩があったので、外野手として、自分の力量を知った上で自己演出していくことの大切さも知りました。ただ、プロ野球最初の打席のことは…全く覚えてないんですよね。ジャイアンツ戦、東京ドームだったことだけは覚えています。でも肝心の自分のプレーは、もう真っ白。それくらい、僕にとっての夢の舞台だったんですね。

野球人生の転機は、大学生の時

でも初めから外野手だったわけではありません。中学の時は、同級生の故障もきっかけになり、僕はキャッチャーに抜擢されました。しかし高校で、僕のキャッチャーのライバルが同じ学校に入学してきて。そいつの方が評価が高かったんですよね。それで僕は、内野手に転向することになったんです。それから大学入学までずっと内野手だったんですが、大学1年の秋に、野球部で当時監督をしていた丹羽監督から、「外野手だったらレギュラーをやる。やるか?」と言われたんです。その時はただ試合に出られるのが嬉しい一心で即答し、大学2年の春から本格的に外野手になりました。今思えば、それがその後のプロ野球人生にも関わってくる、僕の転機でした。外野手として僕の肩の強さが認められたのも、その変化を受け入れて外野手へ転向したことがきっかけですしね。ちょっとした変化によって自分がいい方向に変われるのであれば、思い切った決断をすることも大切。丹羽監督の言葉や勧めもあって、僕はその時そういう決断をしたんですが、今考えると監督は僕の本質を見抜いてくれていたと思うし、監督との出会い、あの一言が、その後の僕を導いてくれたんじゃないかとも思っています。

一度は諦めかけた、野球の道

曽我部 直樹

でも僕、実は一回大学の時に野球をあきらめかけてるんです。バブル崩壊後、就職難になり、野球業界ではクラブチームの採用枠の縮小があちこちで起こりました。ある企業のセレクションを受けに行った時にも「技術的には間違いなく合格ラインなんですが、枠がなくて…」と一時保留にされるも、結局返って来た返事は「No」。本気で悩み、親とも相談して、もう野球をあきらめることにしたんです。その後、大学でお世話になった職員の方から広告代理店の就職先を紹介してもらい、就職先はとりあえず決まりました。あとは、僕がどれだけ野球をあきらめることができるか、ただそれだけ。その時もう4年の秋で、年末まで悩み続けたんですが、結局どうしても野球をあきらめることができずに、その就職内定先に断りの電話を入れました。物心ついた時からずっと続けてきた野球だったので、「自分で終わりを決めたい」というのが一番の理由でした。自分の力不足を感じてやめるのとは訳が違う。就職という壁、外的要因でやめるくらいなら、もっと細々とでもいいから続けていきたい、そう思ったんです。その後、高校時代の知り合いの方の紹介で、野球が続けられるサンジルシ醸造への就職が奇跡的に決まりました。本当に僕は人に恵まれていると実感した瞬間でもありましたね。

大学はトレーニングにも最適な環境!

僕がいた頃はまだ瀬戸キャンパスしかなかった時代なんですが、実は当初、大学は名古屋市内にあると勝手に思い込んでいたんです。街の中に大学があるというイメージだったので、説明会で初めて大学に向かった時、「なんだか坂道をどんどん登っていくなあ…、一体どこに大学があるんだろう?」なんて、そんなことを思っていたことを思い出しました(笑)。でもこういう緑いっぱいの場所は、野球をするにも勉強をするにもとてもいい環境。入学してからは、学生寮から、あの坂を走って大学まで行くのが日課。緑がいっぱいのこの環境も、トレーニングするのには最適な場所で、野球グラウンドの外周から、国道248号線まで出てぐるりと周って帰ってくる、というコースでよく走りました。あと、印象的なことと言えば、学食で、230円くらいのコロッケ定食をよく食べていたことと、英語の先生が野球部の学生にとても理解があったこと。野球部のメンバーは、好んでその先生の授業を履修していました。男性の先生なんですが、野球が好きみたいで、野球部をとても応援してくれていて。その気持ちがとても嬉しかったですね。

お互いに、大きな看板を背負って

曽我部 直樹

大学生活は、その先自分の将来に結びつくような人とコミュニケーションを取って、そこからどんどん広がっていける、そんな縁をつくるにはとてもいい機会です。僕自身が、大学時代を含め、これまで出会ってきた人たちのおかげで今こうして日々仕事ができているので、周囲にはとても感謝しています。また、自分自身を高めていくためのトレーニングや勉強がじっくりできるのも、この4年間。ゆっくりと自分と向き合ってほしいですね。
あと、野球界だけを見ると、例えば僕が「名古屋学院大学の出身です」と大学名だけを言っても、まだまだ名が通ってはいないのが実情です。出身大学を言った時に「あぁ、あの名古屋学院ね!」と言われるようなチームを、今の野球部の子達には作り上げてほしい。野球部に限らず、名古屋学院大学の在学生も卒業生も、その大きな看板を皆が常に背負っていると思うんです。逆に僕たち卒業生は、自分たちが働いている会社を大きくしていくこと、実績を作り、残していくことで、後輩である在学生を引っ張って行くことが使命だと思っています。オリックス野球クラブ(株)を含むオリックスグループも、名古屋学院大学と同じ2014年に50周年を迎えます。お互い、この節目の年に、のちに語り継がれるような歴史を、後世に残していけたら良いですね。
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