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大学紹介

卒業生が語る:水野 光


水野 光

アラスカ州立大学への交換留学は
今の人生の礎とも言える貴重な経験でした。


日進乳業株式会社 代表取締役社長 水野光


プロフィール
愛知県立明和高等学校を卒業後、1977年に名古屋学院大学経済学部経済学科入学。1979年秋から80年夏にかけて、交換留学生としてアラスカ州立大学(現:アラスカ大学)へ留学。1981年に大学卒業後、商社に就職するが、同年に退社し、父が経営する「日進乳業株式会社」に1982年に入社。1999年に代表取締役に就任。

81E541番。楽しい大学生活を送りました

高校は公立の進学校に通っていましたが、十分な勉強もせず、放課後は町道場で空手の稽古をするか、軽音楽部でバンド活動に没頭するか、そのどちらかでしたね。好き勝手にやっている、その瞬間がとにかく楽しくて、充実感を感じていたんだと思います。でもそのかわり、進学のための勉強を疎かにしていたのも事実。成績もクラスで下から数えた方が早いくらいでした。
そして、一浪したのち、同級生から一年遅れて名古屋学院大学の経済学部に入学しました。
学籍番号は「81E541番」。今でも鮮明に覚えています。当時は瀬戸のキャンパスで、まだ経済学科と商学科しかなかったので女の子が少なかったんですよね。今は瀬戸キャンパスにも名古屋キャンパスにも女の子がたくさんいて、私から見ると、とても華やかな印象です。入学してすぐに、高校で同じクラスだった女の子と再会して、その子をきっかけに、女の子グループと仲良くなりました。当時はまだ数少なかった女子学生を独占するような、ほかの男子学生から羨ましがられる男女10人程のグループができました。麦粒苑でバドミントンをして遊んだり、大学の近くのボウリング場や喫茶店に行ったり、あと旅行に行ったりもしました。でも大学では高校の時のように遊んでいるばかりではいけないと、私はひとつ大きな決心をするんです。

受験の屈辱を晴らす、大きな決意

入学当初の自分は、一浪していたことで「自分は受験に失敗したんだ」と思い込んでいました。その屈辱感を晴らすために、大学では無駄にならない努力をするんだ!と決意を固め、「英語を勉強しよう」「優秀な学生と呼ばれるようになろう」「経済学に詳しくなるため本を読もう」と3つの目標を立てて、それに向かって動き出しました。
でも、結果的に入学当時に思っていた「受験に失敗した」という思いは、名古屋学院大学で過ごすうちにいつの間にか消えていきました。良い友達と出会えたこと、かけがえのない経験をたくさんさせていただいたこと、一生の恩師と呼べる先生に巡り会えたこと…。たくさんの人と出会い、多くの貴重な経験をさせていただけて、この大学に来て本当に良かった、と、心の底から思えるようになりました。
でも決めたことはやり通そうと決め、まずは苦手な英語を勉強するために、英会話教室に通い始めます。そのうちに国籍の違う人とコミュニケーションが取れることの楽しさを知っていき、「海外へ行ってみたい」と思うように。そして大学3年の時に、アラスカ州立大学への交換留学の募集があり、もちろん応募。多くの学生が応募する中で、1~3次の試験に合格し、たった3枚のアラスカ行きの切符の1枚を手にすることができました。

アラスカでの貴重な体験を通して

水野 光

アメリカでも北極圏に近いアラスカ州は、冬の寒い日はマイナス40度になる時もありました。夏は白夜で、遅くまで外で遊んでいたことを思い出します。世界中から来てる人と交流していく中で、国籍や人種に関係なく、その人の本質的なものや人間性が大切だということも、この時に学びました。と同時に、自分も、人として品格や教養、知性を持って生きていきたいと強く感じました。
留学中には、空手を披露したり、射撃やホームステイも経験しましたし、親しくなった家族に、別荘に連れて行ってもらいました。暖炉に薪をくべて語り合ったことも思い出です。
アラスカに行って一番大変だったのは、やはり言葉。日常会話は慣れますが、授業となるとそうはいかず。毎日講義をテープレコーダーで録音し、夕方から図書館の勉強室でテープを繰り返し聞いて訳し、内容を理解する…という日々を繰り返していました。夜遅くまで勉強して外に出ると、手の届きそうなところに満天の星空が広がってるんです。日によってはオーロラが空いっぱいにゆらめいていて…。本当に美しい夜空に何度も感動し、励まされました。その時に見た景色や、感じた世界観は、今の自分にもきっといい影響を与えていると思うんです。とても濃厚な一年間を過ごすことができ、かけがえのないチャンスをつくっていただいた名古屋学院大学に感謝の気持ちでいっぱいです。

「父の会社を継ぐ」ということ

水野 光

大学卒業後は東京の商社へ就職が決まりましたが、就職して1年に満たないうちに、転機が訪れました。父が経営する「日進乳業」で、父の片腕として働いていた私の叔父が、末期ガンだということがわかったんです。父は几帳面で真面目な男で、会社を管理することはできましたが、人と接することが苦手なタイプでした。そのかわり、外とのコミュニケーション役はすべて叔父で、それで会社がうまくまわっていたのを知っていたので、叔父の病気を耳にし、私なりにもいろいろ考えました。結果、父の会社を継ぐ決意をしました。ただ、帰ってきて早々、父から「修行に出ろ」と。実は当時アイスクリーム製造がメインで、チョコレート製造の技術者がいなかったので、神奈川県茅ヶ崎にある工場へ私が修行に出ることになりました。半年後に愛知に戻ってから、父の下で働きましたが、当時の私には経営感覚なんて全くありませんでしたし、毎日、朝早くから夜遅くまで、懸命に働き続けるだけの日々でしたね。
32歳で専務になった頃から、少しずつ「このままではいけない」と思うようになりました。アイス製造がメインなので、夏は忙しく、冬は暇。そのため、冬場の運転資金を借りて、夏に稼いで返すという、金融依存型の経営でした。ただ、世間では、町のお菓子屋さんが消えてコンビニ需要が高まり、それによって大手の物流会社が主流になっていったのです。我が社が卸していた問屋さんがどんどん姿を消して行く中で、時代の流れに合わせて会社の経営方針を変えていかなければという気持ちが膨らんでいったのです。

経営革新と、オンリーワン企業

そんな思いを抱いたまま、42歳の時に社長に就任。はじめの1年ほどは、まず父の経営を踏襲し、徐々に自分のできるところから改善していこうと思っていました。が、そのうち、経営方針で父とぶつかり、ストレスが原因で私が倒れてしまい、入院することに。退院までの一カ月間、ベッドの上でひたすら経営戦略を考え尽くし、ビジョンをまとめ、「今しかない!」と、経営革新を図ったんです。もうその時には、父との決別を覚悟していました。
退院後、会社に戻り、取り引きしていた銀行を変え、当時会長を務めていた父を退任させてしまう形で、経営方針もガラリと一新しました。製造はチョコレートのほかにも糖衣や飴など、アイス以外の部門を強化しました。父は半年くらい、口をきいてくれなくなりましたが、会社の売上は上向きになり、私の経営方針は、多くのメディアに取り上げていただきました。それ以来、おかげさまで、会社の売り上げは今までずっと右肩上がりです。
私には「人と同じことはしたくない」というポリシーがあります。ユニークでオリジナリティの高いやり方で、他社との差別化を図りたい。それが、我が社の「スーパーOEM構想」です。大きな会社からの大量注文でも、個人商店からの小さな依頼でも、どんなものでも作ることができる、
間口も奥行きも備わっている下請けのことを、私の言葉でそう呼んでいます。これからもずっとオンリーワンの会社であり続けることを追求していきたいと思います。

自分の意志を働かせ、それを貫くこと

大学の4年間というのは、社会に出ていくための準備期間としてとても大切だと思います。日々の生活の中で培われていく感性、人との関わりの中で育んだ友情や、先生や親に対する尊敬の念など、そうしたものを自分のものとして得られるのが大学時代。今こうして振り返ってみると、自分という人格を形成するのに必要な、ベースになる部分というのは大学時代につくられたのだと感じますし、私自身、その後の人生を左右する出会いがあったり、貴重な経験をたくさんできたのは、大学時代でした。
学生のみなさんには、大切な学生時代を無駄に過ごしてほしくないと思っています。毎日の生活の中で、ひとつでもいいので「目標」を作って、そのことのために自分を動かし、組み立てる「時間」を持つ習慣を付けることにぜひチャレンジしてほしいです。「明日は朝5時に起きる」とか「夜10時に寝る」とか、些細なことでかまいません。でも、決めたことは必ず実行する思いを持ってほしい。毎日をなんとなく過ごしているという人は意外と多いし、私も昔はそうでした。その時はそれが快適ですが、自分の意志を働かせて、それを貫くことで、その少しずつの前進が、大きな飛躍につながると信じています。成功の努力ができない人は、いつまでも成功しません。社会に出ればそれは明確にわかってくると思います。学生のうちに、コツコツと意志の力を訓練することで、どうか色濃い大学生活を送ってください。
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