グローバルナビゲーションへ

本文へ

ローカルナビゲーションへ

フッターへ


What's New

「名古屋学院大学総合研究所研究叢書37」が発刊されました


名古屋学院大学総合研究所 研究叢書37の刊行
鹿毛敏夫著『近世天文塾「先事館」と麻田剛立』吉川弘文館

不動産物権変動の現代的問題 -デジタル社会化・超高齢社会化の観点から

 月面に展開する無数のクレーター。現代の天文学者によって、その一つひとつに過去の偉大な天文学者や科学者の名前がつけられている。Copernicus(コペルニクス)、Kepler(ケプラー)、Einstein(アインシュタイン)・・・・・。錚々たる西洋科学者の名を付されたクレーター群のなかに、日本人名を付されたクレーターが存在する。その名は、クレーターAsada(アサダ)。江戸時代の天文科学者、麻田剛立(ごうりゅう)にちなんだ命名である。
 ところで、日本人でさえあまり知らない麻田剛立の名前が、なぜ月面クレーターに付けられたのであろうか。それは、安永7(1778)年、18世紀後半の江戸時代に、剛立が反射望遠鏡をのぞいて月面のクレーターを観察した最初の日本人だったからである。剛立が書き残した観測記録には、月の地表面の様子が次のように表現されている。
「半月ヲ窺候(うかがいそうろう)ニ、土塊とも水とも水気とも不見(みえず)候。強而(しいて)申サハ、銅細工之物ノ所々凹凸アルとぎの悪敷(あしき)かゝミ(鏡)ニ日ノ写りたることく」。月は土のかたまりでもなければ、水のかたまりでも、水蒸気のかたまりでもない。強いて表現すれば、銅細工の凸凹のある鏡に日の光が差し込んでいるようなものだ、と。

 迷信的な考え方の根強い江戸時代の日本において、観測と実験による実証を重視した天文科学者が存在し、生涯にわたって日食や月食を組織的に観測し、また犬などの解剖実験を行って、大宇宙(マクロ・コスモス)と小宇宙(ミクロ・コスモス)の謎を解明しようとしていたことは驚異的である。本書では、こうした実験科学者麻田剛立とその天文塾「先事館」の活動の軌跡を、残された書簡等の史料から分析・考察し、近世日本天文学・解剖学史研究の深化への貢献をめざすとともに、江戸時代の中~後期に稀有な科学者を輩出した九州豊後地域の史的特性についても考えた。目次構成は、以下の通り。

序―麻田流天文科学者たちの活動とその背景―
第一部 麻田剛立天文学の歴史学的評価
  第一章 近世天文学史における麻田剛立
  第二章 麻田剛立の史料
第二部 天文塾「先事館」の技術・知識とその伝播
  第一章 麻田剛立と三浦梅園・修齢
  第二章 近世大坂―豊後間における天文科学技術・知識の伝達
第三部 麻田剛立・三浦梅園を育んだ九州豊後の史的特性
  第一章 中世末期九州のアジア志向的風土
  第二章 近世豊後の教育と文化
  第三章 近世後期豊後における地域医家の存在形態
第四部 麻田剛立・立達の書簡
  第一章 麻田剛立書簡(往信)
  第二章 麻田剛立書簡(来信)
  第三章 麻田立達書簡(往信)
  第四章 麻田立達書簡(来信)
結語―麻田剛立と天文塾「先事館」の功績―
麻田剛立略年譜
麻田剛立関係資料集・研究著書・論文等目録

 分析の結果明らかになった事実は、以下の通り。
 まず、麻田剛立の天文学は、杵築時代の宝暦・明和年間に依拠していた伝統的な中国式天文学から、安永年間以降の大坂時代には西洋式天文学に基づくものへと変化していった。その画期は、剛立が観測器に西洋式度数を採用するようになった安永4(1775)年前後に求めることができる。さらに、剛立がオランダ人がもたらした反射望遠鏡を入手した安永7(1778)年の段階になると、彼の興味は、作暦のための暦算天文学の範疇を越え、自然学的天体論の領域へと向かいかけた。剛立がこの年に三浦梅園に送った月面スケッチ入りの手紙は、日本の天文学史上において天体そのものへの物理学的関心が生まれはじめる最も古い段階の月面観測図とその観測記録と位置づけることができた。
 一方、剛立が残した50件の観測記録は、18世紀後半の日本での貴重な日食・月食連続観測記録と評価できた。特に大坂の本町四丁目の先事館に本拠を定めて以降の7度におよぶ出張観測の記録からは、常に良好な観測環境を求めようとする麻田流天学家グループの活動の様相がうかがえた。大坂での剛立の観測活動は、九州からの移住4年目の安永4(1775)年の段階ですでに門人4~5人と多くの観測器を伴うグループ観測として実施されており、そこに天文塾先事館の草創の姿を確認することができたとともに、さらに寛政年間に入ると、剛立と門人たちが大坂の異なる4地点で同時観測を行いそのデータを持ち寄る組織的観測を実施した事実が明らかになった。
 先事館に集った麻田剛立グループの観測活動は、橋の欄干や商家の物干場でのみずからの観測活動を多くの人々に公開している点に特徴が見られ、大坂の民衆の目前で官暦の誤りを実証し、また彼らをみずからの推算予報値の的中の証人とすることに成功した。寛政改暦の際の幕府からの招聘に応じることなく、生涯を在野の天文学者に徹した剛立の行動は、大坂の民衆に支えられた場所でみずからの独創性を発揮しようとする剛立の天文学者としての一貫した姿勢を表したものと考えられる。

 日本近代天文学の先駆者麻田剛立は、寛政11(1799)年に没した。しかし、観測と実験による実証を重視するその教えは、弟子の高橋至時や間重富から、やがて実測による精密な日本地図を作ることになる孫弟子伊能忠敬へと引き継がれていくのである。
  1. ホーム
  2.  >  What's New
  3.  >  「名古屋学院大学総合研究所研究叢書37」が発刊されました